情……感情のことまでも彼は論ずるのです。……私達の夫婦生活の最初の日から今日に至るまで、一日一日と、彼の感情は平静にそして鈍重になってきたのを、私はよく知っております。そしてこれから先、更にどうなってゆくことでしょう。理想から現実へ……それは立派な言葉でしょうけれど、また、美しい夢を追払って動物性へ逆行することではありませんでしょうか。
――「お前は自分の感情を自分の食物にしたいのだろう。然し、自分以外のものを消化するだけの丈夫な胃袋を持たなければいけないんだ。」そう野口は皮肉に申します。
私の胃袋は……重苦しい食物をあまり受付けず、ともすると軽く痛みだす、病弱な胃袋ではありますけれど、自分以外のものは消化出来ないほど貧弱なものだったでしょうかしら。いいえ、私はいろんなものがほしかったのです……。ダンスもしたいし、音楽もやりたいし、馬に乗りたいと思ったことさえあります。けれど、浅間山に登って噴火口を覗くようなことは……それは野口一人に任せておきました。
別荘の人たちが数名で、浅間登山をしました。私にはとても行けそうにありませんでした。遠くから見てる方が美しい、と木村さんも云いました。雄大にそしてゆったりと聳えて、うすく煙を吐いてるその姿は、朝も昼も晩も、いつ見ても美しいものでした。
登山は、夜の十二時頃出発して、夜明け前に頂上につき、噴火口を覗いて、それから日出を見るのだそうです。そして普通は、小諸へおりるのが順路ですが、野口の主張で、少し嶮岨だが山道をつたって、血の池を見、追分へ出るとのことでした。「こちらから見えるあの岩の間を、降りてくるんだ。明日見ていてごらん、相図をしてみせるから。大丈夫危いことなんかあるものか。たとえあったところで、手足の皮をすりむくくらいだ……。」だけど私は、そんな危険のことなどを考えてるのではありませんでした。私は、噴火口に身を投げて死ぬ人たちのこと、その人たちの心の中などを、考えてるのでした。もしも私が、この病弱な孤独な……孤独という感じを持つのは、私の方がいけないのでしょうかしら……その生活を悲しんで、そして……いろんなことがあって……野口に、一緒に死にましょうと云ったら、野口はどんな顔をするでしょう。自殺者などとは余りにもかけ離れた人種のように、その時私は野口のことを感じました。それが私にとっては、どんなに淋しいことだった
前へ
次へ
全11ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング