たんです。」
李は腑に落ちないような顔をあげた。
「外套を、どうしてあんなところに懸けたんですか。」
李は返事もせず、何か考えてるようだった。正枝はそれに押っ被せて、外套のことを責めたて、春日荘にけちをつけるつもりかとまで云った。
「あゝ分った。」と李は頭を叩いた。「夢をみました。おばさんから閉めだされて、悲しくて悲しくて、泣いてるうちに、死んでしまいたくなり、玄関にぶら下った夢をみました。それだったんでしょう。」
「何がそれです。」
「そういう夢をみたのを、覚えています。その夢が、外套だったんです。」
こんどは正枝の方で分らなくなった。二三度おかしな問答を繰返した後、諦めてしまった。
「なんだかちっとも分りません。熱があるんでしょう。早く行ってお寝みなさい。」
李がしょげ返って出てゆき、一人になると、正枝はまた腹がたってきた。女中にあたりちらした。
だが、話はそれきりになり、外套は結局、正枝の手で泥を払われアイロンまでかけられて、李に渡された。
その時、李はひどく神妙な様子で、今後は酒を節すると誓い、そうした気持の支柱になる事柄を考えついたから、室代の二十二円を、二円だけまけて下さい、と云いだした。理由を尋ねても、返事をきくまでは打明けられないと強情を張った。しまいに正枝が、それでは一円まけてあげようと折れると、李はほんとに嬉しそうな顔をした。そして云うには、これから、まけて貰った一円とそれに自分が一円だして、毎月二円ずつ正枝に預けることにする、その金は春日荘を去る時に貰えばよく、それまで正枝に貯金をするのだ……。そう聞くと、正枝も喜び、だが郵便局にでも預けた方がよいと勧めたが、李は承知せず、これは自分の心の修養の支柱だから、是非とも正枝が預ってくれなければいけないと主張した。
正枝から李へ小さな手帳が渡され、第一回の二円のところに正枝の印が捺された時、正枝はひどく感心し、李はひどくにこにこしていた。
然るに、正枝にちょっと不快を与えたことだが、三ヶ月たった時、毎月二円ずつ貯金をしていてもう三ヶ月になるとの証明に、印を捺してくれと李が云いだした。何にするのか李は笑って答えなかった。拒むべきことでもないし、李の笑顔に信頼して、正枝は捺印してやった。すると半月ほどたって、李の伯父に当るという人から、手紙が届き、永泰をいろいろ導いてくれ貯金までさせて下されてる由、千謝万謝にたえないとの礼言だった。それと共に、魔除けになるとかいう奇怪な木彫の面を送ってきた。正枝は狐につまゝれたような気持だった。李には両親がなく、その伯父さんから学費も貰ってるとのことである。
「よい伯父で、僕をほんとに愛してくれます。」と李は云った。
正枝は何だかしっくりしない気持で、野性味のある秀才型の李の顔を、しみじみ眺めた。
そのほかいろいろのことで、へんに正体が掴めないながらも、知らず識らず特別の親しみをもった李永泰が、ふいに姿を消したので、正枝は、二日たち三日たつにつれて、気懸りが深くなっていった。平壌より北方の田舎だという伯父の許まで、まさか知らせるわけにもゆかないし、李の少数の知人の中から、特に親しそうな者も見当らないし、処置に困って、ともかくも李の室を検分してみたが、何の手掛りも得られそうになかった。
そこへ、李のことで意外な訪問者があった。
二
李永泰は平素、江原印刷所に出入していた。これは職工が五六人しかいない小さな印刷所で、他の大きな印刷所の下受けの仕事をやったり、また主に端物《はもの》の仕事をしたりしていて、手刷りの機械などもあり、植字組版などの技術的な方面を習得するのに便利であり、李もそうした技術を学んでいた。李は正枝にもこの印刷所のことを屡々話し、名刺とか[#「名刺とか」は底本では「名剌とか」]ビラとか葉書の類などの印刷の用があったら、自分が手ずから拵えてあげると云っていた。
その江原印刷所の主人が、突然正枝を訪れてきて、李永泰について伺いたいことがあるというのだった。
江原はまだ三十四五の年輩で、商人めいた丁寧な物腰ではあるが、知識人らしい風貌や言葉つきなので、学生や勤め人ばかりを相手にしてる正枝には、大変話しがしやすかった。
「そうすると、李君は四日前から居なくなったというわけですね。」と江原は云って、煙草を吸いながら考えこんだ。
江原はたゞそれだけを確かめに来たものゝようで、此度は逆に、正枝の方から李のことをいろいろ尋ねはじめた。そして話はあちこちに飛んだ。
江原のところでは「パルプ」という同人雑誌を引受けていた。同人はみな三十前の青年で、その中の一人が江原の友人の弟なので、全く好意的な仕事だった。「パルプ」というのは紙になる前の原料で、即ち印刷して売り出される文学や評論の一つ手前の原料だという意味らしかった。だが真意は、それ故一層多くの若さと力と真実とが籠ってるものということになるらしかった。同人達は自ら進んで活字拾いにまでやって来た。印刷所は彼等にとってはまた仕事場でもあった。李永泰もその中の一人で、たゞ同人でないのだけが違っており、そして無償で他の端物の仕事もさせて貰える謂わば一種の徒弟だった。李と同様の地位にあって、仕事のこんだ時にはいつでも動員に応ずる代り、日給を貰うことになってる者に、別所次生という青年がいた。李は別所からいろいろの仕事を教わり、別所は李からいろいろの知識を吸収していた。
別所は春日荘に李の室を訪れることもあったし、正枝もその顔を見識っていた。蒼白い痩せた神経質らしい男だった。
丁度四日前、別所と李とは印刷所で一緒に仕事をしていた。そこへ「パルプ」の同人が二人はいって来た。一人は学校を出て就職もせずに遊んでる男で、一人は或る短歌雑誌の編輯を手伝ってる断髪洋装の女だった。二人は別所と暫く話をしていたが、急に別所の顔色が変った。沈黙がきた。男は煙草を吹かし、女はそっぽを向き、それから二人は黙って出て行った。その直後、別所は二三歩後を追いかけたが、いきなり卓子の上の灰皿を掴んで地面に叩きつけた。李が横合からその腕を捉えた。
「見ぐるしいことをするな。」
別所は敵意ある眼を李に向けた。
「何が見ぐるしいんだ。」
「みな、凡て、見ぐるしい。」
別所は口をひきつらしたが、突然気が挫けたように、下を向いて、灰皿の陶器の破片を蹴散らした。
それきり二人とも口を利かなかった。
ただそれだけのことだったが、それが変に不安な印象を人々に与えた。江原と他の職工達が彼方で働いていたが、事の次第は咄嗟のこととてよく分らず、そのため一層不安な印象が深かった。それから二時間ばかりしてから、李と別所とは連れだって帰っていった。
その晩から、二人とも姿を見せなくなったのである。印刷の仕事がこんでいたので、江原が小僧を別所の下宿に走らせると、別所が帰宅してないことが分った。時間をはかってみると、李は一度春日荘に戻って、またすぐ出て行ったものらしい。なお、その前日、李と別所とは長々と議論を闘わしたのだった。別所が書きかけてる小説を百枚ばかり、李に見せたものらしく、それについての議論らしかった。李が手酷しくやっつけているのが、他の者にも大体分った。二人は議論を外にまで持って出た。
その二日のことが江原には腑に落ちなかったのである。殊に別所についてそうだった。別所は近頃、神経衰弱の気味だといって仕事も粗漏だったし、元気がなく蒼ざめ、眼に輝きがなく、へんに陰鬱に沈みこんでいた。その上あの「パルプ」同人の断髪の女は、どうも別所と恋愛関係があったらしく、それを李が揶揄するようなこともあったらしい。ところがあの二日とも、別所は妙に苛立ち、李はそれを酷しくやっつけてるのだった。
「李君も少し変ってますからね。」と江原は云った。
江原の家に、田舎の親戚から預ってる女学生がいた。李が英語がよく出来るので、時々、学校の英語の宿題など教わることがあった。李はいつも親切に面倒を見てやった。ところが或る時、江原がそこに出て行くと、李は椅子に跨って、嬉しげに物語を聞かしてやっていた。若い舞妓と高官の青年との恋愛物語で、その舞妓が一途な愛のために、あらゆる男の誘惑を却けるというような筋だった。江原が側に来ても、李は平気で物語を続けた。
後で、江原は李に注意して、女学生なんかに恋愛物語は控えた方がよかろうと云った。李は承服しなかった。
「あの話は、朝鮮の最も古い古典文学です。春香伝というのです。春香といふのは、女主人公の名前ですが、英語やフランス語に移されてるものでは、表題が春の香りとなっています。春の香りのように美しい話です。普通の恋愛物語とは違います。」
江原は口を噤むの外はなかった。そこに、彼の郷愁みたようなものを感じたのである。
また或る時は、江原もいささか呆れた。この印刷所はどれくらい儲かるかと、李がいきなり尋ねた。経営がやっとのことで儲けなどは少しもないと、江原は正直に答えた。「そうだと思います。」と李は云った。
その平然たる確信の調子に、江原は苦笑もしかねた。李はそれから、活字の仕入れに不行届きな点があること、下受けの仕事は単価が安くて駄目なこと、儲けの多い端物の得意先を開拓する方法が講ぜられてないこと、其他いろいろ、玄人じみた意見を持出して、しまいに、自分をここの支配人にしてみる勇気はないかと云い切った。ひとつ考えてみようかな、と江原はごまかした。
「是非考えてみて下さい。そして勇気です、物事は勇気です。」と李は独り肯いてみせた。
李に関するそういう話が、なおいろいろと出た。正枝の方でも、李の逸話を少しした。そして二人は旧知のように話しあったが、ふと、言葉が途切れると、李の映像が大きく浮んでき、三日も四日も何処で何をしてるかと再び心配になった。
「普通のアパートでしたら、止宿人は全く自由でしょうけれど、私共では、よその大事な息子さん達をお預りしてるという気持から、殊に厳重にしておりますし、李さんもそれはよく知っておる筈ですが……。」
「それに、先程申したように、別所君と一緒に、或は別々かも知れませんが、同時に居なくなったということがなんだか、気懸りです。」
別所の神経質な弱々しい人柄と並べると、李の秀才型ではあるが一風変った性格が、いつしか兇悪な影をも帯びてくるようだった。それかといって、警察の力をかりるには、李に思想上の悪傾向にないとしても、特高係のたまの来訪や半島出身者という点からして、憚られるものがあった。
「とにかく、もう少し様子を探ってみましょう。」と江原は結論した。
江原が帰ってから、正枝は暫く思案した後、此度は一人で再び李の室に行ってみた。そして机の抽出をあけてみたり押入の中を覗いてみたりしたが、どこもきちんと片付いていて、何かの手掛りになるような書き物の断片さえもなかった。そのうち、正枝は突然顔を赧らめ、急いで室から出た。
三
翌朝、正枝は昨夜よく眠れなかったに拘らず、へんに早く眼をさました。起き上ると、すぐにキヨがとんできた。
「奥さま、李さんが帰りました。」
「え、李さんが……。いつ?」
まだ六時前、キヨまでそれで起されたのだった。李はいつもの調子で、のんきに帰ってきて、顔を洗い、身体中水でふいて、それから、今朝だけ御飯をたべさせてくれと頼み、新聞を読みながら待っていると云って、室に上っていったそうである。
正枝は何かしら慌てた。急いで顔を洗い髪をなでつけ、室の掃除がすむとすぐ、李を呼びにやった。
李は単衣に着かえていて、笑いながらやって来た。
「ずいぶん寝坊ですね。」
正枝は黙って李の顔を見た。微笑の光が眼に浮び、喜色が額や頬にあった。何か新鮮なものに触れてきたような様子だった。
彼はそこに大きな盆を二枚差出した。木の丸盆で、内側の周囲に桜の花が不器用に彫ってあった。
「おばさんにお土産です。こんなもの、使えませんか。」
正枝はまだ黙っていたが、お茶を一口すすると、いきなり云った。
「一体、どこに行ってた
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