と、隣室に喧嘩ばかりする夫婦者がいること、独り者の若い女が多くて洗面所が穢いこと、女中たちが彼のことを李さんと云わずに李永さんと半端な云い方をすること、などであった。
 彼は自ら云った通り、或は自炊したり或は外で食事をしたりした。交友は僅からしく、起居は静かで、始終読書に耽っていた。時々ひどく酩酊して帰ることがあった。人前をはにかむことなく、正枝や女中たちともすぐに馴れ親しんだ。厚顔と無邪気とを一緒にした率直さというものがあるとすれば、そういう率直の感銘を人に与えた。正枝を「おばさん」と呼んで何でも相談するし、正枝もいろいろ面倒をみてやった。
 余寒のきびしい初春の頃、淡く雪がきた日の夜遅く、二時頃、李はひどく酔っ払って帰ってきた。正枝も女中たちも寝ていた。けたたましく鳴り渡る呼鈴に、うとうとしていた正枝はすぐに起き上り、玄関の方へやってゆくうちに、外の者が李であることを感ずいた。
 呼鈴のあとで暫くひっそりとなって、今度は戸が激しく叩かれ「おばさん、おばさん」という声まで聞えた。それからまた静まり返った。
 正枝は玄関にじっと立っていたが、外の静けさがあまり続き、急に寒気に身震いして、そっと戸を開いてみた。薄曇りのぼーっとした月明りで、露地の中の電灯線を中途で支えた小さな柱に、人影がしがみついてふらりふらり揺れていた。
「誰です、誰ですか。酔っ払って、こんなに遅く……。」
 それでも返事はなく、柱にしがみついた人影は、やはりふらりふらり揺れていた。
「酔っ払った人は、一時すぎには家へ入れませんよ。一時までは許してあげます。一時すぎたら、自働電話でことわって、酔いがさめてから、翌朝帰っていらっしゃい。何度も云っておいたでしょう。その通りになさい。酔っ払いは、こんなに遅くは家へ入れませんよ。」
 云うだけ云っておいて、正枝は戸を閉めてしまった。がそこに佇んで、外の気配に耳を澄した。
「おばさん、おばさん」と低い声がした。それから急に、わーっと泣きだした。子供が泣くような大声で喚きたてて、それが冗談なのか、本気なのか分らなかった。正枝はじっと耳を傾けていた。やがて、泣き声がぴたりと止んだ。しいんとなった。正枝は腹を立て、そのまま奥の居室に戻った。
 そういう場合、もし女中が眼をさましたら、後で戸を開けてやることになっていた。女中のキヨもタカも、その夜眼をさました。正枝が
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