名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]持った訪問者があった時、李は長時間話しあっていたが、客を玄関に送り出して、それから正枝に云った。「思想のこと心配して来てくれたんです。いろいろ話してやると、喜んでくれました。その方面のこと、僕の方がよく知ってるんです。おばさん、来てごらんなさい。」そこで正枝が彼の室までついて行くと、頁の間々に紙片の貼りつけてある雑誌が沢山取り散らしてあり、彼はそれを指し示して自慢していた。それでも正枝はまだ不安心で、其後特高係がまたやって来た時、そっと李のことを尋ねてみると、なかなか勉強家で有望な青年らしい、との返事だった。客と李とは笑い声など立てて親しげな様子だった。
室の中の有様を、正枝はひとわたり見検べたきりで、何物にも手を触れはしなかった。だが、柱に下ってる短い竹筒だけは、訝しげに取上げてみた。それは尺八だった。竹の肌艶といい根節の恰好といい、素人目にも美事な尺八で、紫の緒の組紐で上の方を結え、柱の釘にぶら下げてある。
「ま、尺八だよ。吹けるのかしら……飾りのつもりかしら……。」
キヨが何の反応も見せなかったので、正枝は尺八を元に戻し、なお室の中を一通り見廻して、それから出ていった。
結局、発見は尺八一つきりで、彼の出奔或は失踪については何の手掛りも得られなかった。外泊の場合は予告するか夜遅くとも電話でもするという春日荘の立前は、彼も充分に知っていながら、もう無音のまま、三日にもなる。いつもの通りぶらりと外出したきりで、室の有様も平素の通りだとキヨは云うし、また、近頃なにか変った様子も見えなかったのである。
「だけど、もとからちょっと変な人ではあった。」と正枝は考えてみる。
一年ほど前に李は春日荘に来たのである。
室をお借りしたいという人が……との女中の取次に、正枝が出て行ってみると、学生服の髪の長い青年が、胸のところに帽子を両手で持って、玄関の真中につっ立っていた。正枝は彼を玄関の横手の椅子に招じて、そこで、如何にも春日荘風な応対がはじまった。
「学校に通っておいでになりますの。」
「そうです。」
「学校はどちらの……。」
「明治大学の法科です。」
「お国は……。」
「朝鮮です。」
そして彼は、毛筆で氏名だけ記入した小さな名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]差出した。美事な筆蹟で李永泰としてあった。
正枝は改め
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