逢った時、彼と一緒に万引して歩いた夢の話をした。
その時、A老人は微醺を帯びていた。※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の粗髯をしごきながら、黙って私の話をきいていたが、しまいにこう云った。
「物欲に囚われすぎた話だな。」
「だって、あなたと一緒だから面白いじゃありませんか。而も、あなたが私を万引に誘いにいらしたんだから……。」
「ははは、それは皮肉でいい……。」
そして彼は何と思ってか、硯箱を引寄せて、一篇の漢詩を白紙に書いて示した。私はあまりそれを面白い詩でもないと思った。すると彼は、詩の横に歌を一つさらさらと書き流して、どうだい、というような顔をした。
[#ここから2字下げ]
何をくよくよ川端柳
水の流れをみてくらす
何為懊悩河上柳
空臨流水送光陰
[#ここで字下げ終わり]
ははあ、と私は思った。
「訳詩ですか。」
「それがね。一寸面白い話があるんだ。私には君のその夢の話よりも、この方が面白いよ。」
それはもうだいぶ昔の話らしい。A老人の懇意な人で、さる料亭のお上さんがあって、「何をくよくよ」の歌が大好きだった。気に食わぬことがあって頭痛がする時でも、その歌を歌えば一遍に気分がなおってしまうほどだった。そのお上さんが亡くなって、丁度一周忌の時のこと、A老人と、故人の贔屓だった一人の幇間と、縁故の人二三人とが、仏壇の前に落合った。そしていろんな追憶談の後で、仏様があの世でまた癇癪でも起して頭痛がしてるといけないから、生前好きだった歌を位碑の前に供えようということになった。ところが、鹿爪らしい戒名と平仮名交りの小唄とでは、どうもつきが悪い。そこでA老人が即座に、その小唄を漢詩に訳して、あの世の仏を慰めたのだそうである。
「どうだい。」と彼は話し終ってから声に出して云った。
然し、私の夢の話の味が恐らくA老人には分らなかったろう如く、A老人の話の味は私にはよく分らなかった。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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