千代次の驚き
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)気質《きだて》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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お父さん、御免なさい。あたし、死ぬつもりなんかちっともありませんでした。ただ、びっくりしたんです。ほんとに、心の底まで、びっくりしました。
村尾さんが、まさか……。今になっても、まだ、腑におちません。随分前からのお馴染で、気質《きだて》もよく分ってるつもりでしたのに……。少し変だと思ったのは、つい近頃のことで、それも、実は、あたしの方が変だったのかも知れません。お前さんこの頃どうかしてるね、とねえさんに云われたことがありました。あたしただ笑ってたけれど、自分でも、どうかしてるような気がしていました。でも、お父さんの教えは、ちっとも忘れたことはありません。芸者をしてる以上は、男に惚れてはいけない、たとえ旦那にも、岡惚と名のつく人にも、惚れてはいけない、とそうお父さんは、くれぐれも仰言ったでしょう。おかしなお父さんだと、はじめは思いましたが、だんだんたつうちに、真実のことを云って下さったんだと、分ってきました。こう云っちゃなんだけれど、お父さん、むかしは随分道楽なすったんでしょう。だから、お父さんの仰言ることは、通り一遍の理屈じゃなく、もとでのかかった、すっかり入れあげた、底まで見とおした、真実のことだと、あたしほんとうに感心しました。男という男は、みんな、うわべはいろいろだけれど、心底は同じものだと、あたしにも分ってきました。だからあたし、どんな人も、ほんとに好きにはならないと、そう決心していました。村尾さんだって、そうです。決して好きになったわけじゃありません。ただ少し、気懸りにはなっていましたが……。
それも、近い頃のことです。あの方のお母さんが亡くなられて、百ヶ日もたってからだったでしょう、急に、しげしげいらっしゃるようになり、しまいには、いつづけなさることさえありました。
「僕はどうせ、病気で死にかかって、危く拾いものをした命だし、母親も見送って、気にかかる者もないし、これからの生涯をどんなにぞんざいに使おうとかまわない。実にさっぱりした気持だ。」
そうかと思うと、また――
「ねえ、千代ちゃん、もしもの時には一緒に死んでくれないか。君と一緒なら、僕はいつでも死ぬ用意をしてるよ。」
そんなのが、酒の上での他愛のない調子で、にこにこ笑っていらっしゃるんだから、ちっとも張合がありませんでした。けれど、その裏に、何だか気になるものがありました。何だろうかと、あたしさんざん考えたあげく、お金のことらしいと思いました。以前は、お金がほしいとか、僕はとても貧乏だとか、そんなことをしきりに云っていらしたのが、ぷっつりと、お金のことは口になさらないんです。それとなくさぐりをいれてみると、中江さんから少し用だてて貰ったとか、母の貯金が残っていたとか、ぼんやりした話でしたが、あたしには、まだそのほかに何かあるような気がしました。それに、何かにつけて、あたしと依田さんとの仲をしきりに気にしていられるようでした。依田さんとはあたし、初めから何でもなかったし、その頃はもうあまりお目にもかかっていなかったから、笑ってすましましたが、その依田さんと云うのが、実は、村尾さんの勤めていらるる会社の社長なんです。そうしたわけで、これは何か、会社の金に関係がありはすまいかと、そんな想像をして、心配になってきました。いくらこちらは商売でも、もしもあたしのためにそんなことでもあったら、ほんとにお気の毒です。けれど、その頃村尾さんは至って鷹揚で、お出先の勘定もちゃんとなすってるし、何かといってはあたしにお小遣も下さるし、お盆の時なんか、まとまって助けてもらいました。
「こんなことを、僕からしていいかどうか分らないが、もしお差支えがあったら止めるし、そうでなかったら、してあげよう。」
言葉は冗談の調子ですが、お客としての云い草じゃないし、眼色がへんに真剣なんです。それをふと真にうけて、あたしは考えこんでしまいました。
「では、お願いしますわ。」
云うといっしょに、眼の中が熱くなって、涙がいっぱい出てきました。場合がいけなかったんでしょう。前の晩に二人とも酔いつぶれて、朝遅く眼をさまして、夢のような気持でぼんやり顔を見合ってた時でした。村尾さんはあたしの涙を見ると、いきなりあたしの手をとって、お嬢さんか奥さんにでもするように、しおらしくうなだれて仰言るんです。僕は君といっしょになろうとか、君をすっかり自分のものにしようとか、そんなつもりでいるんじゃない。ただ、君にしっかり生きていてもらいたい。君はほんとの労働者だ。けれど、労働者としての矜りを持っていない。今の世に労働者はいちばん尊いのだから、それだけの衿りを持たなけりゃいけない。その矜りを持つには、売らないことだ。働くのはいくら働いてもいい。けれど、売ってはいけない。働くことと売ることはちがう。とそのようなことを、まじめに真剣に仰言るんでしょう。ふだんは無口なかただけれど、そんな時にはひどくお饒舌になるのでした。思いきって働くがいい、けれど売っちゃいけない。それだけが、君に対する僕の望みだ。とそうくり返し仰言るんです。それがへんに、あたしの胸を刺しました[#「刺しました」は底本では「剌しました」]。あたしいつのまにか泣きだして、村尾さんの腕にきつく抱かれていました。息苦しくなって、自分に返ると、何だか極りわるい気がしました。そんな気持になったことは、近頃にないことです。
そのようなことがあったり、また何よりも、いちばん度々逢ってたものですから、あたしいつか しらず[#「いつか しらず」はママ]、村尾さんを頼りにするようになっていきました。といっても、心から好きになったのとはちがいます。お父さんの教えは、りっぱに守ってるつもりでした。芸者をしている間は、どんな人でも、ほんとに好になってはいけない、とそう決心していました。そして、やはり、いくらか我儘の出来る地位にはなっていましたけれど、前からの義理あいで、時には身体で稼ぐことも続けていました。それも、あたしにとっては、働くことの一つでした。村尾さんとのそうしたことも、働くことの一つでした。ただ、働くのはよいが売ってはいけない、というその区別が、何だか胸を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ようでいて、それもはっきり分りませんでした。それに、村尾さんばかり頼りにしていたのでは、お金の上のことで、村尾さんが今にきっとお困りになる、只今でもどんな無理をなすってるか分らないと、そうした心配もあって、村尾さんばかりを大事にするわけにもいきませんでした。
それでもやはり、あたしの心ではなく、あたし全体が、村尾さんの方へよりかかっていってるようでした。殊に、誰からかつけねらわれてることに気がついてからは、なおそうでした。つけねらわれるといっても、ぼんやりしたことで、何にもはっきりしたものはつきとめられませんでした。初めは、夜遅くお座敷からの帰りなどに、その辺の電信柱の影や、看板の向うや、町の曲り角に、誰かがつっ立って、あたしの方をじっと見てるようなけはいだけでした。いつそんなことが気になりだしたか、自分でもよくは覚えてはいませんし、またあたしは、近眼に乱視なので、遠くがよくみえませんけれど、たしかに、物影からあたしの方をじっと見てる人があるんです。おやと思って立止ると、もうその人の姿はありません。それにあたしは、そんな時はたいてい酔ってたものですから、何かの気のせいだろうぐらいに思っていました。
それが、だんだんはっきりしてきましたし、しつっこくなってきました。家の近くを、夜遅く、変な人がうろついていた……家の横手で、変な人が立聞きしていた……そういう噂を、ちょいちょい聞くようになりました。また、夜中の一時二時頃、誰からともなく、あたしに電話がかかってきました。千代次さんはいますかと、きまってそうなんです。いない時には、そうですかとだけで、切れてしまいますし、いる時にも、そうですかとだけで、切れてしまいます。どうも、お出先からの電話じゃありません。それが、女の声だったり、男の声だったりします。電話に出るのは、たいてい仕込さんですが、あとでは、あたしが待ちうけていて出てみましたが、そうですかとだけで切れてしまうので、ばからしくなりました。
そうしたことから、だんだん、あたしをつけねらってる者があるということが、分ってきました。うちのねえさんは心配して、心当りがあるかどうか、あたしにたずねましたが、全く覚えのないことでした。あたしこれまでに随分、いろんな男の人を知ってはいましたが、どれもただ、稼ぎのためだけで、お父さんの教えの通り、心を移したことはありませんし、したがって、だましたとか、不実なまねをしたとか、とにかく、怨まれるような筋合のものは、一つもありませんでした。それがあたしの自慢だといってもよいくらいでした。つけねらわれる人があろうなどとは、てんで心当りがありません。それなら何か不良のせいですよ、と箱やさんは云いました。こんどわたしがとっつかまえて、袋叩きにしてやります……。そして箱やさんはあたしの出入りに気をくばってくれました。
そうして、ねえさんから心配されたり、箱やさんから気をくばられたりすると、かえってあたしは心細くなってきました。そうしたことから、しぜんと、村尾さんを頼りにするようになって、五六日お顔を見ないと、手紙をだしたり、また、逢えば逢えたで、引留めたくなったりするのでした。村尾さんはいつも受身の方で、酔っぱらった時のほかは、自分から泊ってゆこうと云い出すようなことは、ほとんどありませんでしたから、いつもあたしの方がだだをこねることになって、時には無理なこともあったでしょうが、迷惑そうな顔をしながらも、実は嬉しがっていらっしゃるのが、あたしにはよく分っていました。そしてあたしたちの間は、急に深くなっていきました。ところが、ふしぎなことに、あたしは誰かにつけねらわれてることを、村尾さんに話しにくかったんです。つけねらわれてるといっても、前のように云えば、毎晩のように聞えますが、実は五日に一度とか、七日に一度とかで、そう始終のことじゃありませんし、村尾さんと逢ってると、そんなことを気にするのが、ばからしくも思えるのでした。がそればかりでなく、もっと何か、話しにくいものがありました。お話してどう思われようと、あたしの方はかまいませんが、それが村尾さんの気持にどうひびくか、気遣われてなりませんでした。
それというのも、その頃、村尾さんの様子が少し変だったせいもあります。何だかこう冷たいよそよそしい態度をなすって、早く依田さんの世話になったらどうだとか、よい旦那を見つけたらどうだとか、僕がこれほど力を入れてやってるのにまだ売る気なのかなどと、それもただのやきもちとちがって、へんに冷く突き刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ように仰言るんです。あたしいい加減にあしらって、旦那なんか面倒くさくていやだの――それもあたしとしては本当のことだし、また、インチキな稼ぎ方なんかちっともしないと――それもあたしの気持からすれば本当のことだし、そんな風に答えますと、こんどは村尾さん、あたしの顔を見て、にこにこ笑っていらっしゃるんでしょう。それも、ひとをばかにしたような、そのくせ可愛いいといったような、そういう笑いかたなんです。そんなのが実はあたしの性に合うので、いい気になってると、ふいに、考えこんでおしまいなさる。かと思うと、これからどこかへ飲みにいこう、大いに愉快にやろうと、そうなんです。そして酔っぱらうと、いやにつっかかってきたり、また、何でもないのに、何も云わないのに、じっと眼を据えて、涙をこぼしていらっしゃる。わけをたずねると、いやに不機嫌で、
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