、と心配そうにきくんです。あたしうるさくなったから、村尾さんはまた戻っていらっしゃる筈だから、きっと引止めて、すぐに電話を下さい、とそう頼んで、ほかへ廻りました。賑かな、ばか騒ぎがすきなかたです。お酌さんを交えて三四人で、騒いでいましたが、やっぱり心が沈みがちで、村尾さんのことが気になって仕方がありませんでした。いくら飲んでも、頭のしんからさめていきます。一時すぎになって、喜久本に電話してみると、村尾さんはいらっしゃらないとのこと。なお気になって、そのままもらって、外に出ましたが、足もとがふらついてるのに、頭のしんがさえて、震えあがるような寒けがしました。そしてどこへ行っていいか分らないような気持になって、いつのまにか泣きだして、家の近くをぼんやり歩いていました。そうしたことにふと気がついて、ばかばかと自分に云いながら、よその家の戸口によりかかって、溜息をついて、なんて自分はばかなんだろう、こんなでどうなるんだろうと、心の中でくり返していますと……向うから、せのひょろりとした男が、黒いマントを引きずるように着て、黒い帽子をかぶって、黒い襟巻で頬をつつんで、薄暗い通りに眼をじっと据えて……どうも、村尾さんらしいんです。あたし、いちどに息をつめ、近眼の眼をみはり、じっと待ち受けて、側まで来ると、つかつかと出ていってやりましたが、村尾さんと眼を見合ったとたんに、気が遠くなりました。何か声がして、それからしいんとなって、どれくらい時間がたったか……やがて、がやがやした人声が耳についたので、眼をあいてみると、あたしはそこに一人しゃがみこんでいて、向うから、芸者衆が四五人、お客さんをとりまいて、だらしなく酔っぱらってやってきます。あたしはむちゅうで馳けだして、家の戸を引きあけて、とびこんでいきました。
 まだ起きて待ってた松若さんが、すっとんきょうな声を立てました。あたしの様子がよっぽどへんだったにちがいありません。だけどあたしはもう、そんなことにとんちゃくなく、二階の室にかけあがって、ふとんの上にきちんと坐って、物に憑かれたような気持で、じっとしていました。お座敷着のままふとんのまんなかに坐ってるあたしが、こわかったのでしょう、松若さんがそっとのぞきに来て、またおりていったのを、ぼんやり覚えています。
 それから暫くして、あたしはとびあがって、窓を引開けました。たしかに、村尾さんが外に来ています……。村尾さん、みんなあの人だったんです。お座敷では、しっかりした冷淡なほどの素振をしながら、一人で、あたしの家の前をうろついていたんです。全く別々なその二人が、じつは一人だったんです。まだ、誰に遠慮もなく逢えるのに、どうしてそう二人になるんでしょう。嫉妬……真心……恋……ばかりでもない。あたしが何もかもうっちゃって進んでいかなかったのが悪かったのかしら。そんなわけはない。そんなら、なぜ向うからもそうして下さらなかったのかしら。あたしが芸者なんかしてるのがいけないのかしら。それでも、あたしだって……。窓からすかしてみると、表の通りは、しいんと薄暗くて、向うになんだか、村尾さんが……。やっぱりそうなんだ。あたし心の底から、びっくりしてしまって、のりだしてよく見ようとすると、とたんに、窓枠の木が外れて、身体が宙にとんでしまいました。強い声で叫んだと思います。頭がめちゃな大きなものにゆすぶられて、まっくらになりました……。

 二階から落ちて、玄関の植込の影の捨石に頭をぶっつけた千代次は、昏倒したまま病院にかつぎこまれたが、脳の内出血で、手当の仕様もなく死んでいった。
 その三十五日忌の品物が、村尾庄司の家に贈り届けられた時、村尾は包みを開こうともせず、庭にとびだして、冬の冷い朝日のなかで、大きく深呼吸をした。骨だった彼の眉間には、深い決心の色が現われていたが、それがどんな種類のものだか、今は知る由もない。それに第一、人の決心などというものは、実践に移されない限り無意味なものだから、ここで吟味することをやめよう。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「文学界」
   1934(昭和9)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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