。夏はシャツ一枚、他の季節には褐色のジャンパーを着、冬には黒いオーバーをひっかけ、いつも短いズボンに下駄ばきだった。出かけるのは晴れた日に限っていて、雨降りにその姿を見かける者はなかった。
そしてたいてい、竹編みの大きな籠を、長い紐で肩からぶらさげていた。その籠の中に、たいてい、スケッチブックを入れていた。それからたいてい、太い杖か一管の尺八を持っていた。竹籠は買物のためであって、いろいろな品物でふくらんでることがあった。スケッチブックはめったに使われることがなかったが、なにか興趣ひかれる事物に出逢った場合のための用意だったろう。それから、杖はよいとして、尺八に至っては誰にも合点いかなかった。然し、近隣の人々は、深夜、嚠喨たる尺八の音を度々聞かされていたし、たぶん、手馴れてるままに彼はそれを携えていたのであろう。
そのような姿で、市木さんは飄々乎と歩いていた。近所の人々に出逢っても、会釈もせず、振り向きもしなかった。人々の方でも、微妙な気持ちから、なんとなく素知らぬ風を装うのだった。市木さんはいつも真正面を向いていて、左右に眼を配ることなく、後ろを振り返ることがなかった。周囲に全然無関心のようだった。
幅の広い街路などには、子供たちが集まって騒いでることがあった。そういう所も、市木さんはすーっと、然しゆっくりと、真直に通りすぎていった。子供たちはへんに静まって、市木さんの後ろ姿を見送り、それからまた騒々しい遊びを始めるのだった。
市木さんは頑丈そうな体躯だったが、力もたいへん強いとの噂があった。柔道にも熟達してるとの噂があった。噂の出所は明かでなく、また真偽のほども不明だった。けれども、その噂は如何にも真実らしく感ぜられたし、それも一因となって、女や子供たちから敬遠される風だった。
或る秋の颱風後、倒れた板塀を市木さんが独力で立て直してるのを、二人のお上さんが見た。前日から颱風警報が出ていたが、夜になって風雨が強まり、夜半には可なりの暴風雨となり、翌朝はまだ風はあったがからりと晴れていた。颱風がすぐ近くを通過したわけではなく、被害も大したものではなかったが、それでも、街路には木片や生々しい木の枝葉が散らばり、古い板塀などは所々に傾いたり倒れたりしていた。市木さんの板塀もずいぶん古いもので、門柱のわきが傾き、その先が二間ばかり倒れていた。それを市木さんは一人
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