かれ、同時にまたそれから嘲笑される。――こういう時には、一人静かに酒を飲むがよい。安物だけれどウイスキーならいささか蓄えがある。
 婆やは、いつでも、どんなことでも、私の言う通りにしてくれる。用をすますと三畳の室にひっこんで、何かこそこそ仕事をしている。
 然し久子はそうはいかない。訪れてくると、無断で私のところへ飛びこんで来る。何か気に入らぬことがあれば「先生、また……、」と言う。――学校の教師でも豪い著述家でもない私は、その先生という言葉に擽られたものだが、いつしか馴れてしまった。
「先生、また、飲んでいらっしゃるのね。お身体にいけないわ。」
 さすがに、瓶とグラスを取りあげようとはしないが、黒い瞳に刺を[#「刺を」は底本では「剌を」]含んで、眉根に皺を寄せるのだ。それから、その刺と[#「刺と」は底本では「剌と」]皺とが消えると、近眼鏡だけが目立つ顔付になって、早口で言う。
「婆やさんに聞いたんだけれど、卵と海苔と御飯一膳、それきりしか召し上らなかったんでしょう。もっと、いろいろなもの、沢山あがらなければいけませんわ。」
 私の健康のことを心配してるのである。ほんとに病気だと思ってるのだ。バタだの鰻だの牛肉だの、そんなものを食べさせたいらしい。自分で買ってきてくれたこともある。それから飯をもっと多量に食い、ビタミンの注射もし、何よりも医者にかからねばならないのだ。――然し生憎なことに、バタを除いては、列挙されたものを私はあまり好まない。バタはまだ買い置きがある。卵と海苔しか食べなかったといっても、それは、婆やがそれしか出してくれなかったからだ。婆やが出してくれるものなら、私はたいてい食べている。そして婆やは、私が丁度食べるぐらいのものを出してくれる。飯の分量については、ウイスキーで充分に補いはつく。
 私は微笑しながら、煙草をふかした。
「君が台所をしてくれたら、面白いだろうなあ。食道楽をして、そのために破産する……現代離れがしてるよ。」
「いいえ、現代的というのは、ふだんと病気の時との……。」
 言いかけて彼女はやめた。私があまり微笑しすぎてるのに気付いたのだ。――私の微笑のなかには、彼女に対する蔑視とまではゆかないが、少くとも軽視が含まれているのを、彼女は感づいている。微笑されるよりは寧ろ、怒ったり叫んだりして貰いたいのであろう。
「先生は、いつもはぐらかしてばかりいらっしゃるのね。いいわ、あたしもどうでもいいの。御病気がひどくでもなったら、もう側を離れやしないから……。」
 彼女は突然、捨鉢にしんみりとなって、涙さえ浮べてるらしい。そうなると、眼鏡だけがへんに目立ってくる。眼鏡は、殊に女の眼鏡は、全くへんなものだ。相手に涙を見せたい時には、せめて眼鏡を外すべきだろう。キスする時にだって眼鏡を外すのが女のたしなみではないか。現代の女性はそんなことには無頓着だ。――それでも、私は彼女の肩に手をかけ、眼鏡のままの彼女にキスしてやった、私自身も眼鏡をかけたままで。
 彼女はその眼鏡の奥の黒い瞳で、じっと私の眼を見入ってくる。
「あたし、先生より先に死にたい。死ぬ時は、あたしの手をしっかり握っててね。それだけ誓って。」
「それは、誓ってもいい。将来のことは何も誓わないのが僕の主義だけれど……。」
 私は真面目に答えた。彼女の感情を尊重してのことだ。――どちらが先に死ぬか、死に際がどうか、そんなことではないのだ。清田のおばさまのことが、彼女の心にまた現前してきたのである。
 清田のおばさまを、私は直接には識らない。久子から聞いただけのことだ。――天成の麗質で、典型的な美人だったらしい。若くて夫に死なれ、その未亡人生活には幾人かの男性が点綴されたらしい。だがそれは畢竟、愛情の問題ではなく、富裕な美しい未亡人の火遊びに過ぎなかったようだ。そして晩年、彼女は久子を熱愛し、久子も彼女を恋い慕った。同性愛を超えた深い情愛だった。清田のおばさまが肺を病んで、鎌倉の海岸に転地してから、二人は始終逢ってるわけにはゆかなくなったが、そのために愛情は一層深まった。久子が訪れてゆくと、おばさまの子供も看護婦も自然と席を外して、二人きりで語り合うことが多かった。臨終の時には、久子は死ぬ思いで馳けつけた。おばさまはもう意識が朦朧としていた。
「おばさま、久子です。久子よ……。」
 おばさまは痩せ細って、首が折れそうで、頬が蝋のように白かった。睫毛の長い眼を、ちょっと開きかけて、また閉じた。そして囁くように言った。
「久子さん……。」
「久子よ、お分りになって。」
 おばさまの喉のところで、へんな音がした。それからひっそりとなった。暫くたって、囁くような声がした。
「久子さん……。」
「ここにいますよ。おばさま、お分りになって。」
「手を握って。」
 おば
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング