無数に生起してくる。――だが、私としては、たとい生き得られなくとも結構だと思うのだ。
 それに、私は議論が嫌になり、次に憂鬱に沈んでゆく。飲む速度も早いので、ひどく酔ってくる。尾形の方では酔えば酔うほど饒舌になるのだ。私は彼に饒舌らしておいて、ぐったりと横になった。
「お疲れになったのね。枕をあげましょうか。」と久子が言う。
 私が頷くと、酔ってる彼女は、尾形の前も憚らずに、押入を開けた。
「あら。」
 彼女は一瞬立ち竦んだ。それから、真赤な箱枕を取り出した。
「なんでしょう、これは。」
 彼女は冷淡に言って、箱枕を私のそばに投げだしたのだ。その枕のことを、私は彼女に秘している。言うべきことでもないからだ。――然し、それを瓦礫のように投げ出されると、酔ってる私は、急激な憤怒を咄嗟に感じた。私は起き上って、枕を拾いあげ、袖で拭き清め、それを頭にあてがって寝そべった。そして叫んだ。
「もう帰ってくれ。君たち帰ってくれ。僕は一人でいたいんだ。この大事な箱枕をして、彼女のことを考えていたいんだ。一人きりでいたいんだ。何をぐずぐずしてるんだ。帰れよ。僕はもう一切口を利かないぞ。黙って一人でいたいんだ。」
 私の眼から涙が流れてくる。私は横向きに枕を抱くようにして、両袖で顔を蔽う。――尾形が、それから久子が、私に何か言ったり、互に囁き合ったりしてるようだ。私は何物にも耳をかさず、何物も見ないのだ。
 夢のように、然し明瞭に、台風の中心みたいなものが現われる。そこは真空だ。私はその中に身を置く。底知れぬ寂寥が私の上に蔽い被さってくる。泣ききれぬほどの嬉しい哀愁だ。そして真空なのだ。真空は満たされねばならない。それを満たすために、清子の姿が立ち現われる。真空の中に、それは自然と出現する。――私は眼を開く。そこには誰もいない。尾形も久子も帰っていったらしい。婆やもいない。ただ私一人だ。もう清子もいない。清子は果して実在の人間だろうか。そうだ、私にとっては架空のものではない。――私は箱枕に後頭部を押しつけ、仰向けに体を伸して、瞼を閉じる。蝉の声がちょっと聞えて、あとはしんしんと、寂寥の聖域だ。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「群像」
   1947(昭和22)年1
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