生活について
――地方の青年へ――
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)その何を[#「何を」に傍点]の謂
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人の生活には、一の方向が必要である。
生活の方向とは、云い換えれば、生活する者の頭の方向、眼の方向、従ってまた、仕事の方向などを、一緒にした総称である。更に云い換えれば、自分の一生を通じて何を為すかという、その何を[#「何を」に傍点]の謂である。
一生を捧げて何を[#「何を」に傍点]為そうかという、その何を[#「何を」に傍点]が少しも定まっていない生活が世にはある。昨日は甲のことを為し、今日は乙のことを為し、明日は丙のことを為そうとする。一生の間転々として、一定の仕事に従事することが出来ない。宛も風のまにまに漂う水草のようなものである。そして一生の終りになって振返ると、結局何にもしなかったという、落寞とした気持になる。そういう人が世にはある。
私の看る所によれば、それはいけない。
本当の生活には、よい生活には、一生を通じて何を為すかということ、一生を何に捧げるかということ、それがはっきりしていなければいけない。それがはっきりとしていて初めて、偉大な仕事も為され、力強い生涯も生れてき、あらゆる困難に打勝つことも出来る。
方向の定まっていない者は歩くことが出来ない。方向の定まっていない船は進むことが出来ない。
海洋の上に在る一隻の船を想像してみる。何処をさして行くかということが一定していない時には、その船は決して何処へも行けないことになる。時折の偶然な気紛れのままに、あちらこちらに行くことはあっても、それは本当に進むのではなくて、単に彷徨し漂うのみである。而も一朝暴風雨にでも逢えば、沈没するまではそれに捲き込まれて、難を遁れ得ることは極めて少い。
人の生活に於ても、一定の方向がなければいけない。
そしてこの方向は、固より単に方向である以上、可なり範囲の広い漠然としたもので宜しい。例えて云えば、実業とか政治とか文芸とか農業とか、そういうくらいのもので宜しい。甲の会社と乙の会社とを問わないし、甲の畑と乙の山林とを問わない。実際その時々の生活状態によって、そう細かく決定されるものではない。然し大まかな一の方向は、必ず必要である。
その方向によって人の生活は、一時的の多少の曲折はあろうとも、全体としては、堂々と真直に進展してゆくことが出来る。
方向は必然に一の目的を所有する。そしてこの目的なるものは、人の生活に於ては、手近なものから最終のものに至るまで、無数に存在し得る。云わばその目的は、一定の方向の――無限の距離まで延びている一定の方向の、所々に散在する標石の如きものである。今日の目的があり、明日の目的がある。そして最終のものは、所謂理想である。理想は如何に高くても遠くても構わない。到達出来ないものであっても構わない。ただその理想に至るまでの、無限の道程を連結すべき標石が、所々に散在しておればよい。
斯くて、動かすべからざる一定の方向があり、その無限の距離の終端に理想の高塔が聳え、それに至るまでの間処々に、大小幾多の標石が立っている、そういう生活こそ、本当にしっかりした力強い輝しい生活である。そういうものを持たない生活は、盲者の生活であり、虫けらの生活である。
右のことさえしっかりしておれば、人は如何なる場合にもまごつくことがなく、常に堂々と進んでゆくことが出来る。
生活の方向は、自然に定まるものではなくて、生活せんとする者が――当の人が、それを定めなければならない。そして、如何にして如何なる方向を定めるかが、極めて困難な問題となる。
この社会にあっては、人は種々の伝統を荷い、種々の境遇に拘束されて、決して絶対に自由なものではない。自由なのは内的生活だけで――思想感情の動きだけで、外的生活は――行動は、種々雑多なものに縛られていて、決して自由ではあり得ない。
自分の生活に一定の方向を選択せんとする時、人は各種のものを考慮する必要があり、また考慮しなければならない。方向だけを選んでも、その方向を辿り得なければ何にもならない。自己の才能や性格、周囲の事情、其他あらゆるものを熟慮して、長い時日を要して、そして次第に方向は定まってくる。
ただ私が茲に云いたいのは、自分の生活の方向を決定するに当って、出来る限り自分の意志を尊重しなければいけないということである。
自分の意志に依らない方向を、もしくは自分の意志に反した方向を、漠然と又は余儀なく辿る生活には、力と光とが決して生じない。そういう生活には責任感が存しない。時々の些少な責任感はあっても、自分の一生に自分が責任を持つというような、生活の礎となるべき責任感は存しな
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