った。その日は、朝食に麺麭と山羊乳とを食べ、それから夕方同じくその少量を取ったばかりだった。で芳子は葛湯を作ってやった。そしてその少量を与えた。それから堯は暫くして安らかに眠った。熱も七度三分に下っていた。
 私達は、堯の枕頭で暫く黙っていた。が何だか非常に淋しくなった。昼間M町通りを帰って来る時ふと玩具のことを考えたことを、私は話した。「これで、坊やが病気でもひどくなると、あれが虫が知らしたとでもいうようなことになるんだね。」私はそんなことを云った。「私はまた疫痢にでもなるんではないかと思って……。」と芳子は云った。
 私達は十二時頃床についた。芳子が産期近くなってから堯は私と寝るようになったが、其晩芳子は堯を抱いて寝てやった。
 その夜中に下痢が二回あった。便の色が非常に悪かった。然し朝になっても別に容態が悪いようでもなかった。熱は六度四分だった。「この分ならいい。」と私は思った。
 私は厳格なる公務を帯びている身だった。それでいつものように六時すぎに家を出た。然し絶えず気がかりだった。そして十一時家に帰って来た。
 堯は眠っていた。容態は変っていなかった。十時頃U医師が来て腸の洗滌を一回したそうである。下痢が朝一回と、私が帰って来てから一回あった。然し此度は、便に極めて少量の黒ずんだ赤いようなものが混じていた。食慾は一切なかった。
「これはいけない。」という気がした。堯は前から消化不良がひどい時でも、食慾が少しも無いということは殆んどなかったのが、急にはっと思い出された。私は少し狼狽し出した。私の帰るのを待っていた芳子も急に騒ぎ出した。
 十二時頃になると堯はひどくぼんやりして来た。「嗜眠の状態ではないかしら。」と私は思った。
大急ぎで食事を済したS子さんに至急車を走らして貰った。「U氏かS氏か、二人共居なかったら至急誰かに……。」と私は頼んだ。U医師に無断ではと思ったが、それを断る間も待ち切れなかった。
 私と芳子とは堯の枕頭についていた。堯は欠伸《あくび》をした。
「欠伸をするのはいい方だね。」と私は云った。
「さあどうですか。」と芳子は答えた。
 然しそんなことでもいいと思わざるを得ないほど、私の心は不安になっていた。そしてその不安は本当に形になって現われて来た。
「あなた、眼が変ではありませんか。」と芳子が云った。
 私は堯の眼を覗き込んだ。両の眼球が
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