、あの通りの容態ですから、どうにも仕方がありませんね。今晩あたり危険かも知れません。午後からはついていられた方がいいでしょう。」
私は少しも驚かなかった。そういう言葉も私の心の中に何の響きをも立てなかった。私はただ感謝の頭を下げた。
私は駆けるようにして家に帰った。T君が来ていてくれた。
私はすぐに八畳の座敷の方へはいった。芳子が寝たままじっと私の顔を見つめた。私は芳子の側の小さな蒲団の中を覗いてみた。と、私ははっとした。堯とそっくりの赤ん坊の顔が其処に在った。すやすや眠っていた。
私は芳子の枕頭に坐った。蒲団の外に差出した芳子の手を私は強く握った。力強い何とも云いようの無い涙が出て来た。
私達は暫く黙っていた。
「どうだった。苦しかった?」と私は云った。
「ええ。それでも陣痛が激しい代りに時間は早かったのです。三時半に。私はSさんの手をじっと握っていました。」
堯の時は芳子は私の手を握っていた。
暫くすると芳子が云った。
「如何でした?」
「同じようで別に変りは無い。」
暫くすると芳子はまた云った。
「いけなかったのではありませんか。」
私はじっと芳子の眼を見守った。精神が張り切ったような朗らかな澄み切った眼だった。
暫くして私は云った。
「まだ大丈夫だ。然し覚悟はしていなければならない。」
芳子は首肯いた。
「帰る時に、Uさんの言葉では、今晩あたりがむずかしいということだった。」
芳子はまた首肯いた。
「いいかい。本当にしっかりしていなければならない時が来たんだ。どんなことがやって来てもじっとして居れるだけの心は養っておかなければならないと、僕がいつも云っていたのは此処のことだ。私達の出発が既に初めっから生命がけですからとお前はよく云って居たろう。あの気持ちをはっきり握っていなくちゃいけない。特にお前は今大事な身体だ。神経過敏にはなっていても、精神感動を起してはいけないんだ。いいかい、分るだろう。」
声は低かったが、私の言葉は怒鳴りつけるようだった。芳子は黙って首肯いた。暫くして私はまた赤ん坊の顔を覗き込んだ。指先でその頬に触ってみた。絹のように柔かだった。
芳子は、何とも云えない引き締った笑顔をした。私はその時ふと日数をくってみた。堯の誕生日は一月十一日だった。丁度その日から今日まで二百八十日余りになっていた。吉とも凶ともつかない気
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