。私に似て呼吸器も弱かった。がS氏の手当に依ってどうかこうか生命を取り留めた。S氏は大学の研究所の方の忙しい仕事の合間にいつも私の家を見舞ってくれた。病気が軽くなると、芳子は堯をだいて常を連れて、大学のS氏の許へ通った。そして今年の五月頃からはもう時々しか薬も取らなくていいようになった。粥をすすって魚肉を食べるようになった。百日咳以来約一年間に及ぶ病気に衰弱し切った身体も、少しずつ恢復してゆくようだった。私達は一年間の心労からほっと息をついた。
「よくもったものだ」とふり返って考えた。そしてその頃からT式抵抗療法の方のKという女の人に毎日私の家へ来て貰って、十分か十五分ずつ腹を揉んで腸の働きを活気づけて貰った。八月末からは、K氏にも三日に一度位来て貰えばいいようになった。九月なかばからは一週に一度になった。
堯は少しずつ、ほんの少しずつ、一年間の衰弱から脱して肥っていった。もう他人の手をからないでも、自分一人で生長してゆけるようになった。時々便の加減が悪かったり熱が出たりしたが、それもすぐに癒った。物につかまって歩けるようになった。そして頭の方も著しい発達をして来た。何でもよく分っていた。私達は喜んだ。N神社の祭礼には、小さな万燈《まんどん》を買ってやると、それを手に持って、後ろから人に身体を支えさせながら、家の中を駆け廻った。
芳子は二度目の児を妊娠していた。九月末か十月初めに出産の予定だったが、まだそれらしい模様も見えなかった。少し後れても心配はいらないと産婆は云った。「心臓の鼓動が多いようだから屹度女のお児さんでございますよ。」と云われた。それで男と女と一人ずつで丁度よくなるのであった。
私はその日、堯の顔を覗き込んだ。よく眠っていた。額に手をやると、まだ熱があったが、少しは減じたようだった。でもとにかく一寸した時にかかりつけの近くのU医師を呼ぶことにした。「大丈夫だ!」と私は云った。
私達だけ食事をした。食事の時はいつも、堯は私の足座《あぐら》の中に坐って物を食べた。その日は堯が眠っているので、珍らしく餉台の前に一人で坐ると、私は妙に物淋しかった。
食事がすんで暫くすると、堯は眼を覚した。抱いてやってもぐったりしていた。食麺麭の切れを持たしたが食べようともしないですぐに捨ててしまった。食物を取るようになってからも、昼と晩とだけ堯は粥を食べて、朝はい
前へ
次へ
全20ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング