いいだろう。然し主治医を取り換えることは道義上、また医者仲間の規約上、殆んど出来ないことだった。要は立会診察をなすか、もしくは入院させるか、二つしかなかった。それはまた後で何とか工夫もつくだろう。ただ今の所恐れずに真実に向ってつき進むの外はない。運命が凡てを決するだろう。そして壮助の前に運命がぴたりと据えられた。
 医者が出て来た時、壮助は一寸物影に身を潜めるように身を引いて、あたりを見廻した。それからつかつかと医者の前に出て来た。
「あの一寸お伺いしたいことがありますが。」
「え何ですか。」と答えて医者は立ち止った。
 壮助はじっと空間を見つめるようにしたが、そのまま医者の家の方へ先に立って歩き出した。医者もその後からついて来た。
 夕暮の色がまだ明るい通りのうちに籠めていた。その中を忙しそうに人が通った。然し誰も彼等二人に注意を向けて行く者はなかった。
「病人の容態のことですが。」と壮助は切り出した。
「はあ。」
「余程険悪でしょうか。」
「そうですね、今の所少しは先《せん》よりもいいかと思いますが……。」
 何でもないその言葉に、壮助は却って裏切られたような感じを得た。そしてもうすぐに問題のうちにつき込んでゆけた。
「何か腹部に故障があるのではありますまいか。」
「故障と云いますと?」
「重い腸の病でも併発したんでは。」
「いやそのことなら御安心なすっていいでしょう。私の診《み》た所では余病を併発した徴候はありません。勿論これからのことは分りませんが。唯少し腹部と便の加減がおかしいと思ったことがあったのです。腸が結核菌に冒されるとあの衰弱した身体には余程困難ですから、それを恐れたのです。然し度々便を検査してみましたが、菌は認めません。それに肺の方も左胸に大分浸潤がありますが、この頃痰が余程少くなったのはよい徴候です。然し何しろ年がお若いし、衰弱が甚だしいのに食慾がないのですから、余程注意を要しますよ。それに水気《すいき》が少しあるようですから。」
「それでは今の所危険だという状態ではないのでしょうか。」
「危険だと云えば危険ですが……。急な変化はあるまいと思います。兎に角も少し食慾をつけなければいけませんね。少し身体が恢復すればまた療法もありますが、何しろ衰弱がひどいですからね。それから熱を出さないようにしなければいけません。熱が出ると病勢も進むし、痰が多くなって衰弱も増すものです。それに心臓を弱らせないようにしなければいけません。」
 壮助は何を信じていいか分らなかった。然し腹部に余病がないことと腸に結核がないこととは確からしかった。其処から光明が湧いて来た。彼は横から医者の顔を仰ぐがようにした。髪を長く伸し短い鬚を生《は》やして、下目勝《しためが》ちに物を睥《にら》むような癖のあるその年若い医学士に、彼は急に感謝したくなった。そして種々な細かい注意事項を尋ねた。胃腸を丈夫にして食慾を進めることが目下の急であり、滋養物も種々な製薬品よりは直接に生《なま》の肉や野菜から搾り取ったものの方がいいという彼の意見にも、壮助は自分の乏しい知識と常識とから首肯出来た。
 二人《ふたり》は何時のまにか医者の家の前まで来てしまった。壮助は驚いたように急に別れを告げた。
「兎に角一寸病勢を防ぎ止めたのですから、よく注意なさらなければいけません。」と医者は終りに云った。
 一人《ひとり》になると壮助は急に空に向って飛び上りたくなった。暗い杜絶したものが急に彼の前から取り払われた。凡てがよく、凡てがいいようになるであろう。彼は殆んど駈けるようにして羽島さんの家へ帰って来た。
 狭い裏口の方に廻って其処から入《はい》ろうとすると、羽島さんが彼の足音を聞きつけて、すぐにやって来た。然し彼は何とも云わないでただ壮助の顔を見守った。
「心配なことは少しもありません。」
 不用意に投げられたその一言が却って壮助自身を驚かした。彼は一寸息をつめて羽島さんの顔を仰いだが、それから静かに云った。
「腹部にも何処《どこ》にも余病はないそうです。余病が出ると非常に危険だから念のために幾度も便の検査をしたんだそうです。それに胸部の痰もこの頃は非常に少くなっていると云っていました。病勢が一寸防ぎ止められているそうです。これから熱が出ず食慾が増してゆけばもう大丈夫なんです。然し衰弱がひどいから安心は出来ないそうですが、種々|悉《くわ》しく手当を教わって来ました。」
 壮助は腸結核の問題に就いては何にも云わなかった。老人に対しては常になすべき多くの気兼があった。そして咄嗟《とっさ》の間に壮助はそれを忘れなかった。それから彼は医者から聞いた種々な細かな注意を話した。
 羽島さんは黙って聞いていたが、壮助が話し終ると、何とも云えない顔をした。昏迷した表情のうちから静かな湿《うる》んだ眼が覗いていた。
「ではどうにか助かるかも知れませんね。」
「え?」
 壮助はそう問い返したが、そのままあわてたように眼を外《そ》らした。何時のまにか彼等の心のうちに根を張っていた光子の死の予感が、表《あら》わに姿を示した。「どうかして助けなければ……。」そう思う心の奥に何時のまにか死の予感が、死の予期が、入《はい》り込んでいた。焦慮や諦めや希望やが其処に戦われた。
「兎に角これからが大切です。」
「そう……。」
 羽島さんは手を挙げて、心持ち禿げ上った顔を撫でた。
 何を悲しみ苦しむことがあろう!
「大丈夫です。」
 壮助はそういう言葉を残して病室の方へ去った。
 光子の側《そば》には看護婦が演芸画報を披いて見ていた。光子の視線はその姿を掠めてじっと壮助の顔の上に据えられた。
 病室の淡い薬の香の籠った温気《うんき》が、壮助の心を儚《はかな》いもののうちに誘《さそ》い込んでいった。彼は苦しくなった。
「お湯に行って来《こ》られませんか、私がついていますから。」
「左様ですか。」と答えて看護婦は暫く考えていたが、「では一寸行って参りましょう。」
 看護婦が出て行った後、病室は静かに澱んできた。勝手許で用をしている小母《おば》さんの物音が間を置いてははっきり聞えるようだった。
 天井を見ていた光子の眼がまたじっと壮助の方に向けられた。病に頬の肉が落ちてからその眼は平素よりも大きくなっていた、そしてその清く澄んだ黒目の輝きが露《あら》わになっていた。
「ねえ津川さん!」
 壮助は自分の名を呼ばれて、畳の上に落していた眼をふと挙げた。
「私これでよくなるんでしょうか。」
「そんなことを考えるからいけないんだよ。よくなることばかり考えなけりゃいけないよ。医者も大変いいと云っていたから。」
 光子は一寸|黙《だま》っていた。
「ね、私に教えて下さらない?」
「何を?」
「先刻、お父さんと何を話していらしたの。」
 壮助はじっと光子の眼を見返した。その眼には物を詰問《きつもん》するような輝きがあったが、壮助の視線に逢うとすぐに深い悲しみのうちに融《と》け込んでいった。
「あなたまで私に隠そうとなさるんですもの。」
「いえ何も隠しはしないよ。いつだって何にも隠したことはないでしょう。先刻《さっき》はね、お父さんが大変心配していらしたから、私が医者に詳《くわ》しく聞いてあげようと云ったんだよ。そして医者が帰る時一緒に外を歩いて、種々なことを尋ねて来たよ。病気も大変いい方だと医者は云っていたけれど、大変今衰弱してるでしょう。だから早く滋養分を取って元気をつけなければいけないんだよ。今が大切な時なんだからね。」
 光子は別に壮助の言葉をきいているようでもなかった。そして彼が云い終るとまた話を初めに戻した。
「誰も私に何にも知らしてくれないのよ。お父さんは何にも仰言《おっしゃ》らないし、お母さんはあの通り何にも分らないんでしょう。それにお医者様はいつもいいいいと云ったきりで帰ってゆかれるのよ。看護婦さんもただ私にお薬や牛乳を飲ませたり種々な話をするきりで、大事なことは何にも云ってくれないんですもの。私ききたいことが、大事なことが沢山あってよ。それに誰も何にも教えてくれないんですもの。」
「それはね、光ちゃんがききたいようなことは誰にだって分るものじゃないんだよ。自分にだってはっきり何がききたいか分らないんでしょう。けれどね、病気がよくなるとみんなはっきり分って来《く》ることなんだよ。だから、ただじっとよくなることばかり考えているといいよ……。私が知ってることは何でも教えてあげるからね。今までだって何にも隠さなかったでしょう。だからききたいことがあったら何でも私にそう仰言《おっしゃ》い、ね。一《ひと》つのことを種々な人から聞くのはいけないよ。私が知ってることは何でも教えてあげますからね。」
「ええ。」と光子は軽く首肯《うなず》いた。
「隙のある限り度々来てあげますからね。」
「ええ来て頂戴な。……でも済みませんわね。」
 光子は頭をぐたりと枕の上につけて、天井の隅を見つめていた。長く組んだ髪の毛が枕から畳の上に落ちていた。壮助はそれをそっと枕の上に程よく束ねてやった。
「私がお前を愛しているから……。」と壮助は心のうちで云った。――それをはっきり言葉にきいたら、彼女は恐らく喫驚《びっくり》して泣くだろう。そしてまた晴れやかに微笑むだろう。もう凡てがはっきりしたというような眼付をして壮助を見るだろう。
 然しそれは恐ろしいことに違いない。
 壮助は光子の顔から眼を外《そ》らして、驚いたように室《へや》の中を見廻した。何という静かなそして貧しい室だろう。暮れなやんだ明るみが窓の障子に映って、室の中にはいつしかぼんやり電燈がついていた。
 壮助は床の間から※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]のソップのはいってる瓶を取った。
「少し飲んでみない?」
 軽く首肯《うなず》いた光子の唇に、壮助は瓶の吸口を当ててやった。光子は二口ぐっと飲み込んだが、それきり首を振った。
 壮助は枕頭の布を取って、汁の少したれている光子の口のまわりを拭《ふ》いてやった。妙に子供らしい筋肉の足りないように思わるるその口元にも、肉が落ちて皮膚がたるんでいた。
「私よくなったらお願いがあるのよ。」
「ええ云ってごらん。」
「きいて下すって?」
「何でもきいてあげるよ。」
「あのね、人に云ってはいやよ。……よくなったら玉川の鮎が食べたいの。」
 壮助は淋しく微笑《ほほえ》んだ。何時だったか小母さんと三人で玉川に遊んで、鮎の料理を食べたことがあった。光子は少しきり箸をつけなかった。尋ねてみると、「おいしいけれど……。」と云って笑った。
「ええよくなったらまた連れていってあげようね。だからなるたけ元気をつけなければいけないよ。」
 光子はほっと安心したように微笑んだ。
「今に暖くなると、すぐに起きられるようになるんだからね。」
 そして壮助は心のうちで、「よくならなければならない!」と叫んだ。然しそれが妙に苦しかった。頼《たよ》り無い不安が彼の胸の中に流れた。

     三

 壮助は夜の九時頃、ほの暗い裏通りを自分の下宿の方へ向って歩いた。うとうとと眠っている光子の顔が彼の頭の中に刻まれていた。
 ややあって彼はふと足を止めた。「今日が丁度……」と思ってみたが、頭がぼんやりして幾日だかはっきり思い出せなかった。そして妙に苛々《いらいら》して来た。
 電車通りの方へ足を向けて、其処の交叉点に出ると、夕刊売りの何時もの女が背中に子供を負《おぶ》って鈴も鳴らさずぼんやり立っていた。
「おい一枚おくれ、何でもいいから。」
 夕刊を引ったくるようにしてその欄外を見ると、三月六日としてあった。
「やはり今日は三月五日だったのだ!」壮助は二三町新聞を片手に掴んで歩いていたが、それをそのまま其処にうち捨ててしまった。
 綺麗に剃刀をあてていつもてかてか光っている幅の広い脂切った古谷の顔が、壮助の眼の前に浮んだ。そして自分の帰るのを待って火鉢の前に傲然と構え込んでいるその姿を見るような気がした。
 それは去年の九月だった。義理ある叔父が事業の失敗後満
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