洲に渡航する時、壮助は学生時代から卒業後世に出るまで度々世話になった金の一部を返すためと、叔父の新らしい前途を祝する心とのために、うかと高利貸の古谷から百円を借り受けた。その後十二月に光子の病気の費用を助けるため、彼は僅かな俸給を書き入れて無理にまた百円を古谷の許で調えた。凡ては二ヶ月の期限だった。二ヶ月毎に彼は八分の手数料と高利とを元金に加えて書替をしていった。深い脱し得ない網の中に囚えられてゆくことに気附いた時は、最早遅かった。二月の中頃から厳しい督促の矢が彼の許に向けられた。そして三月五日は幾度もの折衝の後の最後の期限だった。然し如何にしても金策の方法を知らなかった彼は、生きてゆくだけの体面を維持しなければならなかった彼は、今日までぐずぐずと日を過したのだった。
 其処《そこ》の街頭に佇《たたず》んで、彼は空と地とを透し見た。空には星の光りがあり、通りには軒燈の光りがあった。そして通り過ぎる人々がじろじろ彼の姿を見て行った。凡てに縁遠いような自分の姿が佗《わ》びしく顧みられた。そして面倒くさかった。為すべきこと、在るべきことが、面倒くさかった。
 何時《いつ》の間にか自ら知らずにぼんやり歩き出していると、彼は急に後ろから呼び止められた。川部が其処に急いでやって来た。
「どうしたんだ? いやにぼんやりしてるね。」
 川部の生々した顔と声とに、壮助は初めて夢から呼び覚されたような気がした。そして凡てにぶつかってみようという力が脳裡に閃いた。
「何処《どこ》へ行くんだい。」
「家に帰るのさ。」
「そうか。」そう云って川部は彼の顔を覗き込んだ。「では僕も一緒に其処まで歩こう。」
 川部は彼と学校の同級だった。そして其後も可なり親しく交っていた。学校時代からずぼらで勝手な熱ばかり吹いていた彼は、いつの間にかしっかりした新進批評家として前途を文壇から嘱目されるようになっていた。彼の顔には何時も熱のある表情があった。そして何時も何かしら興奮していた。興奮のうちに彼の精神が生々と育っていった。
「おいどうだい、此の頃は。」と川部は云った。
「何が。」
「光子さんの病気さ。」
「ああ少しはいいようだし、医者もいいように云っているが、まださっぱりはっきりしないんだ。」
「なに医者の云うことなんか、当《あて》になるもんか。ただ君の実感が、君が肉眼で見た所が一番本当だよ。」
「そうかも知れない。……然し一体肺結核という病気は癒るものだろうかね。」
「なに癒らないことがあるものか。いくらでもその例がある。然しあの病気の恢復するか否かは恐らく運命だろうね。医学の方でも種々な新薬が出たが、要するにケレオソートかゴヤコール剤にすぎないと云うじゃないか。ツベルクリンの注射だって人の体質に依ると云うじゃないか。あの病気の本当の恢復原因はいつも、日光と空気と滋養物との自然要素に止まるんだ。」
「また例の論法だね。」
「そしてそれが事実なんだ。……然し用心しないと伝染するよ。」
「伝染したっていいさ。」
 川部は一寸壮助の方を顧みた。
「そうか、その決心なら大丈夫だ。そして大いに彼女を愛するがいいんだ。いや愛しなけりゃいけない。もしそれが君の心の必然のそして後悔のない向き方なら、それを生かすことが君自身を生かす道なんだから。」
 壮助は何とも答えなかった。
「一体吾々日本人の生活には実感が欠けていていけないんだ。実感に生きることは猶更欠けているんだ。いつも作り物の衣の中に自分を囚《とら》えている。そしてその衣にばかり執着している。中は空《から》だ。どうすることも出来ない穴があいているんだ。その穴を填す道は只裸になるより外の方法はない。裸になればいやでも自分のうちのことが眼について来る、そして其処に眠っている実感が自由な呼吸をするんだ。」
「君の云うことは分っているが、妙な云い方だね。」
「何が妙なもんか。……例えば、直接のいい比喩《ひゆ》が在る。太古の半裸体時代の人間を考えてみ給え。記録が教える所に依れば、また吾々が想像し得る所に依れば、彼等の身体には力が満ち充ちていた。それが、次第に着物をつけ、着物を重ぬるに従って、人間の身体から力が、輝いた力がぬけて来たんだ。そして失った力の跡に大きい空虚《くうきょ》が残されたんだ。空虚や微力はいつも悪徳なんだ。吾々の精神に就いてもそれと全く同一じゃないか。」
「それじゃ裸体《らたい》に帰るんだね。」
「そうさ。然しまさか裸体で歩けもしないが、兎に角心の衣を捨てることは最も大切なんだ。其処には身体の裸体に於ける如き官憲の干渉はない。そして其処から本当の愛や仕事が生れて来るんだ。」
 或る玩具屋《おもちゃや》の飾窓の片隅に、小さな羽子板が沢山並べられていた。川部はふとそれに眼を止めた。
「おい一寸。」
 壮助も彼に続いてその
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