性格批判の問題
豊島与志雄

 旅にあって、吾々は、山川の美のみに満足する風流気から、よほど遠くにある。事前には、土地の眺望や快適について、いろいろ気にするけれど、いざ旅に出てみると、自然そのものの風趣は、吾々の関心の僅かな部分をしか占めない。興味の対象はやはり、人間もしくは人間生活にある。一人旅の、或る場合の佗びしさ、または或る場合の嬉しさは、このことを証明する。――と、こんなことを云えば、ナマグサだと笑われるであろうか。
 けれども、偶然、橋の上で語らった女、舟に乗り合した人々、散歩の折に見かけた人家の内部、山奥の掛茶屋で渋茶を飲みあった樵夫……そういうものの面影は、後になってその旅行のことを考える時には、記憶のなかに薄らいでいて、影絵のような模糊とした映像をしか止めていない。その代りに、当時ぼんやりと看過したもの、橋の構造やその下の水のせせらぎ、舟べりを打つ水音や四方の景色、田舎町のすすけた軒並、掛茶屋の縁先に展開してる空間と山岳の眺望などが、まざまざと眼前に浮んでくる。
 古人はうまいことを云った、国亡びて山河在りと。故郷のなつかしさは、その人事にはなくて、その山河にある。旅の明瞭な記憶は、旅行中当面の関心事たるその人事にはなくて、看過しがちだったその自然の景色にある。――このことからして私は、凡て追憶的旅行記に対して、人物の記述よりも自然の記述により信用する。人物の記述は半ば創作であることが多い。
 旅行中に得らるるこうした自然の印象は、時がたつにつれて、一種の抽象作用を受けて、益々簡明になってくるようである。それは一の景色以上の景色であり、一の眺望以上の眺望である。現実に何かが加わった――或は差引かれたもので、そして結局はプラスの景色や眺望である。
 文学上の読書は、一種の精神的旅行である。ところがこの旅に於ては、記憶のなかに刻みこまるる印象は、何よりも人物のそれが最も深い。殊にすぐれた文学書であればあるほど、益々そうである。勿論、文学のなかには、自然描写が少いし、益々少くなりつつある。然し自然描写を別としても、或る情緒や、或る情景や、或る事件の発展などが、読書の最中に吾々の心を惹きつけて、人物には大して関心をもつ余裕を与えないことがある。そういう場合にも、後になって記憶のなかの感銘を探る時には、それらの情緒や情景や事件は、いつしか薄らいでいて、最も強く残っているのは、人物性格のそれである。人物性格が現われていない作品を、吾々は最も多く忘れ去る。
 ドン・キホーテやハムレットのような典型は別としても、少しく文学に親しむ者の間では、日常、彼はオブローモフのような男だとか、サアニンのような奴だとか、ゴリオみたいな親爺だとか、或は、彼女はカチューシャのような女だとか、ノラみたいな婦人だとか、そういった言葉が聞かれる。けれども、文学の中に描かれてる場面や情景や事件をもってきて、何々のような場面とか情景とか事件とかという言葉は、殆んど耳にすることがない。描かれてる場面や事件や情景は、ただ、その人物に依存するのみである。
 文学のなかに描かれてるこうした人物性格は、旅行の記憶のなかに存在する自然の景色と同様に、面貌の取捨選択からひいては抽出強調をくぐって、簡明化されると共に加重されて、何かしらプラスの人物性格を形成している。これが歪曲されず、作者の傀儡とならず、生きた生命を保ってるところが、不思議と云えば不思議でなくもない。
 この不思議をなしとげるものが、芸術的批判である、と私は云いたい。それは理知的な批評や解剖ではない。個別的にレッテルをはりつけるような分類ではない。もっと全的な批判、云わば、魚を網で掬いあげるようなものである。然し掬いあげた魚を、盤台の上に置き並べると、見ているうちに死んでしまう。
 無批判ということは、芸術の上では、之を字義通りに解釈すると、大変な誤りに陥る。吾国の自然主義小説がいつしか身辺雑記的な心境小説に堕していったことに於て、吾々はこの誤りを経験した筈である。私見私情を去り、善悪美醜を超越して、対象の真を掴むということは、写真機になるという意味ではなかった。真は批判の規準であって、善悪美醜を超越して無私無我の境地に身を置くことは、その批判的態度であった。美が批判の規準となるように、真も批判の規準となり得る。そして美が時代と共に変化するように、真も時代と共に変化する。ただ、批判がなくなる時に、美も真も死滅する。芸術上の無批判が相対的態度に過ぎないことは、実践上の無主義が相対的態度に過ぎないのと同様である。無批判ということを絶対的に解釈すれば、自然主義文学は訳の分らないものとなる。
 こう云ってくると、批判の意味がはっきりするだろう。人間に対するこういう批判から、プラスの性格が生れてくる。そしてなお極
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