自らそれを警戒する習慣となりました。中本相手の時には用心しながら使って仕合せでした。も少しで危いところでした。
 けれども、自ら禁じたその拳法を、既に多少とも使ったのです。そこには、新たな空間が、自由に振舞える空間がありました。
 そして彼は、夢みるような気持ちで、前夜のあの屋台店に行ってみました。主人は愛想よく彼を迎えました。けれどそれきりで、何の奇異もありませんでした。あの壮大な魅惑は、片鱗さえも残っていませんでした。葦簀張の屋台店はみすぼらしく狭苦しく、揚物の油の匂いがたちこめていました。仁木は無意味に焼酎を幾杯か飲みました。
 もう足許がふらふらしていました。それはマラリヤの発作の時と同じようでした。そして彼は憂欝で、その憂欝に自ら憤っていました。
 復興祭はまだ続いていました。或る広場に拵えられてる舞台では、新作の音頭が歌われ踊られていました。大勢の群衆が四方を取り巻いていました。
 その群衆の中に仁木は押し入ってゆきました。人々の怪しみ驚くのもかまわず、人込みの中を押し分けて、舞台のまわりを歩きました。まもなく、ふしぎにも、人垣の抵抗が感ぜられなくなりました。彼の身体はその群衆の中を、水をでも押し分けるように容易く、通りぬけてゆきました。どこにも、殆んど抵抗がありませんでした。
 それならば……と仁木は両腕を組んで考えこみました。と同時に、危惧の感が起ってきました。これからどんなことをするか分りかねました。その辺の人々を踏み潰すかも分りませんでした。そういうことが起らないとは保証出来ませんでした。新たな深淵を覗きこむような怖れと寂寥が襲ってきました。
 彼は真直に歩いてゆきました。焼け跡に出ました。そしてなお歩き続けながら、このままでは済むまいと思い、一種の戦慄に似た眩暈を感じました。
 路傍に仄白い石がありました。彼はそこに腰を下して、煙草を吸いました。傍には丈高い雑草が繁茂していました。青臭い匂い、辛い匂い、薄荷めいた匂い、それらが一緒になって、彼を誘いました。彼は野獣のように茂みの中にころげこみました。
 時がたちました。仁木は何かの気配に、むっくり身を起し、びっくりしたように突っ立ちました。すぐ近くに、二人の女が立っていました。その二人が、一息つくまに、走りだしました。走りだして、一散に逃げてゆきました。その方へは仁木は眼もくれず、首垂れながら、ふらりと歩きだしました。
 なにかしんしんと考え耽ってるようでもあり、白痴のように放心してるようでもあり、その区別が彼は自分でも分りませんでした。
 四つ目垣が、月の光りに仄かに見えました。彼はそれを乗り越しました。大きな水甕の伏さってるのが眼につきました。彼は竦んだように佇みました。それから空を仰ぎました。それから……甕をいろいろに動かし、あらん限りの力をしぼって、斜めにした甕の中にはいりこみ、自分の上に甕を伏せてしまいました。それでも、片方に石をあてがって空気の流通口をあけることを忘れませんでした。
 甕の中は、驚くばかりの静寂でした。物音がすべて聞えないばかりでなく、外界と全く絶縁された境地でした。望んだ通りの自己監禁の場所でした。仁木は安堵の吐息をついて、地面の上に胡坐をかき、両腕を組んで眼をふさぎました。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「群像」
   1947(昭和22)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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