暑い夏の日々が続きました。仁木は雷雨と雷鳴を待ちこがれましたが、それらしいものは一向に来ず、強い日差しに、焼け跡の菜園の作物は萎れがちでした。
 その暑い中を、仁木は黙々として会社へ通い、黙々として事務を執りました。組合運動には何の熱意も示しませんでしたが、現場の工員たちからは信頼の眼で見られていました。雑貨の小さな店舗を出してる兄の商売を、彼は好まず、そちらへは殆んど顔を出しませんでした。けれど、復員者仲間の一人が闇商売をやっているのへは、好意を見せて、会社関係からいろいろ便宜をはかってやりました。そして彼の許へもいろいろ物資がはいってきました。それを、平井夫婦や富子はたいへん喜びました。然し彼は、お世辞を言われてもただむっつりしていました。
 酒を飲むのが彼の唯一の道楽のようでした。屋台の飲食店がたくさん並んでる方面へ出かけてゆき、メチールの危険の少い馴染みの飲屋で焼酎をあおりました。梯子飲みをすることもありました。その調子は、そういう屋台店の市井的気分を愛してるのではなく、逆にそれを軽蔑しながら、ただ酒だけを愛してるような風でした。
 酔って帰ると、彼は雑誌を読むか、または黒猫のクマを相手に遊びました。クマはその黒い顔に丸い眼を光らしてるだけで、彼からどう扱われようと平気で、信頼しきってるのか、全く従順なのか、彼に全身をゆだねますが、やがて倦きてくると、爪を立てて手掛りを求め、ぱっと飛びのきました。それから外を一廻りし、戻ってきて、まだ起きてる彼から声をかけられると、長い尻尾をまっすぐに立てて、その先で唐紙を撫でながら、恥かしげに寄ってきました。

 そのクマが、或る時、失踪してしまいました。はじめは、さかりがついて、一匹の牝猫を中心に、集まってきた数匹の猫と一団になり、ぎゃあぎゃあ騒ぎたてていましたが、そのままどこかへ行ってしまって、一週間たっても、十日たっても、戻って来ませんでした。
 仁木三十郎は、猫の自由恋愛に敬意を表して、縁先や庭の隅や菜園の中など処かまわず、彼等がうるさく鳴きたて騒ぎたてるのをじっと我慢していましたが、やがて、その賑やかな一団がどこかへ退散してしまい、それと共にクマが行方をくらましてしまったのが、気にかかりました。
 平井夫婦は、クマを迎え入れたと同じ平気さで、クマの失踪を見送りました。さかりがついて遊び歩いてるのだから、やがて帰っ
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