う思うのも、彼がもう酔っ払ってきた故だったかも知れません。
 酔ったのかなあと、彼はふと、夢からさめたように考えました。そして立上りかけましたが、片膝だけで、また坐りこみ、杯を取りました。それを口へは持ってゆかず、じっと眺めました。光りがちらちら、月の光りのように映っていました。それへ、女は間違えて銚子を差付けました。
「よせよ、もうよせよ。」
 どなりつけて、仁木は杯を一口に飲み干し、卓子の上にかたりと置きました。それへ、女は銚子を差付けました。
「もうよせよ。」
 女は笑顔をしたようでしたが、それより早く、仁木は彼女の手から銚子を払い落しました。銚子は卓上に砕け散り、酒が四方へはねました。女はきっと身構えたようでした。そのとたんに、仁木の平手は彼女の横面へ飛びました。彼女は声も立てずに、そこへ突っ伏しました。
 そのことに、彼自ら茫然としていました。次の瞬間、彼の右手首は、中本の手で押えられていました。彼は口許にかすかに冷笑を浮べながら、静に立ち上りかけました。中本は坐ったまま、卓子越しに彼の手首を捉えていました。揺ぎのない力のようでした。その力に彼は手首を任せながら、中腰になって、ちょっと考えました。突然、彼は中腰のまま卓子を廻り、左手を中本の腕に飛ばせました。中本は仰向けに倒れました。
 中本はすぐ起り上り、坐ったまま、握りしめた両の拳を卓子について、仁木を見つめました。仁木は突っ立ったままで言いました。
「危いからおやめなさい。僕はあなたに反感は持っていません。危いからおやめなさい。……失礼しました。」
 彼は少しく蒼ざめていました。そして静かに室から出て行きました。

 淡い月光のなかを、仁木三十郎は歩いてゆきました。
 危い危い、と彼は胸の中で呟きました。彼は自分の拳法のことを考えていたのです。それは大陸にいる時に習得したものでした。師匠の言うところに依りますと、昔、伏牛山の小林寺に、達磨大師が易筋経なるものを伝え、その易筋経の中に書かれてるところのものが小林《しょうりん》拳法として今に伝えられているのだそうでした。その小林拳法の正統な秘術を、師匠は会得しているとのことでした。そういう師匠について、仁木は修業しました。師匠と別れて後も、独りで錬磨しました。激しい拳法で、相手の生命に関わることがあるので、うかつには使えませんでした。そして帰国してからは、
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