けました。軽いマラリヤの発作も、もう殆んど起らなくなりました。通俗な電気器具を拵えてる小さな町工場の会社では、彼を意外なほど優遇してくれました。兄一家の狭苦しい商店の片隅から、平井家の八畳の一室に移り住むと、その室がはじめは広すぎて佗びしく思われるほどでした。平井は配電会社に勤めてる老人で、夫婦とも温厚な好人物でした。息子の戦死が最近になって初めて分明し、一室を仁木に貸すことにしたのです。夫婦の外に、堀内富子という中年の女がいまして、炊事雑用を一切やり、仁木の日常の用事も手伝ってくれました。それから猫が一匹いました。
ありふれた牡の黒猫で、四足が白く、首の下にも白いところがありました。その白毛の配置がちょっと奇妙で、四足が拵え物のように見えることもあれば、首の下の白いのが熊の月の輪のように見えることもありました。この月の輪のために、クマと名づけられていました。空襲によってその辺が広範囲に焼けた後、家の中にはいりこんできた猫で、長い尻尾をまっすぐに立ててその先で何度も唐紙を撫でたので、どこかの飼い猫だったことが分ったそうでした。
長い尻尾を立ててその先で唐紙を撫でるのが、クマの癖でした。それはたいてい、食物がほしいとか、背中を掻いて貰いたいとか、なにか人間に用のある時でした。それ以外はいつも知らん顔で、人間の方は見向きもしませんでした。そのクマを、仁木はひどく可愛がりました。夜は同じ蚊帳のなかに寝ました。
そのようにして静かに落着いてる仁木三十郎が、ふしぎなことには、乱暴な怖い男だという印象を周囲に与えてるようでした。或る時、配給の酒を一緒に飲みながら、平井老人はしみじみと仁木の様子を見守って言いました。
「世の中のことは、辛棒が大切だよ。あんたもまあ若いから、癇癪玉を押えつけるのを、修業の第一とするがいいよ。」
また、或る時、会社で、業務上の相談会のあと、主任の江川は彼の肩を叩いて囁くように言いました。
「お互に、自重しようよ。直接行動はいつでも出来るからね。」
それらのことが、仁木にとっては、意外でもあり心外でもありました。彼はいつも控え目に、口もあまり利かぬようにしていました。但し、好奇心から町会の総会に出てみました時、区役所からの種々の通達がいつも余りにさし迫って来るので困るということについて、そのような御役所式な通達は無視して取り合わないがよかろう
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