した。ただ、それが多量にないため、試作品ということにして、ストックされていたのです。然し、やがて、燃料欠乏の冬期をめあてにそれが売り出され、多分の利潤を得て、年末の特別手当の増額となるであろうということを、この小さな会社の従業員たちは暗黙のうちに了解していました。そういうところへ、突然、中本の手に在庫電熱器を引渡すという議が起りました。そして代償としては、コード用の銅線ばかりでありました。その物々交換の交渉は、専務と中本との間でなされ、専務はその決定を従業員の幹部へ通達しました。幹部連中は反対しました。中本はもともと、各方面に関係してる社長のところへ親しく出入りしてる男だということが、周知の事実であり、そこから或る疑惑が起りました。また、折角の製品が、中本の手に渡れば、露店の闇商人などにばらまかれる恐れがありました。また、物々交換となれば、会社の保有現金についての不安もあり、それは直ちに従業員全体の懐に影響しますし、且つ、交換の価格比率についての不安もありました。そして専務と談合の末、製品は或る価格で中本に譲り、中本は或る価格で銅線を納入するという、甚だばかげた妥協に結着したようでした。
 その間、仁木はいつも素朴に、問題は従業員の総意に問うべきだと言いました。主張はせず、問わるれば言うだけでした。最後までそう言いますので、江川がよく相談しようということになったのです。
 然し、もう相談することなどはありませんでした。
「あの問題は……、」とそういう言い方を江川はしました。「実はつまらんことだね。第一、試作品だからね。」
「ええ、試作品です。」と仁木は気の無さそうに答えました。
「よく考えてみれば、大して問題にはならんようだ。」
 そこへ、中本が横から口を出しました。
「試作品をべらぼうな値で押しつけられちゃあ、こっちがたまりませんね。会社の信用にも関わりますぜ。」
「いや、試作品はいつも最優秀品ときまっていますよ。ただ箇数が少いのが難点でしてね……。あの材料を多量に、あなたの方でなんとかなりませんかね。」
「さあね、私もそれを考えてるんだが……。」
 そんな風に、話はもう問題を通りこして、一般の経済情勢や政府の施策に及んでゆき、間々に巷説や逸話を織りこみました。
 仁木は黙って酒を飲みました。彼のそばについてる芸者が、杯があけばすぐに酒をつぎました。それが後ではう
前へ 次へ
全14ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング