ードのガウン姿、それでいて細そりと見え、唐草地模様の桃色のネッカチーフを、黒髪の上からすっぽりと※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]へ結んでいる。その絹布からのぞいてる彼女の顔を、私は思わず視つめた。血の気が引いたような白い薄い皮膚の下、緊張した肉に殆んど何等の動きも表情もない。生理的な営みが瞬時に停止して而もなお生きているとするならば、恐らくこういう顔になるだろう。そのなかで、ごく緩やかな動きしかなさない黒目の一点にぽつりと光を浮べ、薄い唇のはじに犬歯の先端が白くほの見えている。
 私は彼女の顔を見つめたまま立ち上って、軽く一揖した。彼女も軽く身を屈めた。――私は支那語が話せないし、彼女は日本語が話せないのだ。
 秦と彼女とはなにか短い言葉を交わした。彼女は椅子に身をおろして、先の尖った細い指に※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をもたせた。
 秦が何か言うと、彼女は私の方を見てうなずいてみせ、それから二人の間にまた短い言葉が連続した。秦の調子にはやさしいいたわりがあり、彼女の調子はへんに機械的だと、私には感ぜられた。
 然しそれよりも、随分と強烈な芳香が、さきほどから私の鼻をついてきた。香水の香りに何かの香りが交ったもので、私はその方にも気を取られた。――後で分ったことだが、彼女は軽い眩暈におそわれてベッドに就く時、いつも、コティーの香水をやたらにふりまかせ、白檀香をやたらに焚かせて、その緩急混合の芳香の中に浸るのだった。秦はこのことからして、彼女の所謂脳貧血は、病的症状ではなくて神経的現象だと、簡単に解決していたのである。
 彼女の顔の肉は、私が居る間じゅう一度もほぐれなかった。彼女から来る芳香も薄らがなかった。
 やがて秦は彼女を連れだし、暫く待たせたあとで、熱い茶を運んでくる楊さんと共に戻って来たが、私は間もなく辞し去った。私の宿ブロードウェー・マンションまではかなり遠く、自動車で送って貰った。
 自動車のなかで私は、今見たばかりの夢のような生々しさで、丹永の顔を見ていたし、その香料を嗅いでいた。

 そうした彼女の、精神的というよりも寧ろ神経的な存在が、時として霊界の言葉を伝えたのである。
 或る時彼女は、友の母親の病気見舞に行き、友と二人で客間にいる時、ふとした沈黙のさなかに、天井を仰いで大声で言った。
「死臭あり、死臭あり。」
 彼女ははっと我に返って、顔色を変えた。――いつも自分が無意識に発した言葉を意識しているのだ。――友も顔色を変えた。それから二人で手を執りあって泣いた。
 一週間後に、友の母親は死んだ。
 この種の例はいくらもある。――的中しなかった言葉は、解釈を誤ったのか、或は忘れられてしまったのであろう。
 張浩が狙撃された時は、少しく異っていた。
 その晩、夕食後、彼女はなんとなく淋しく、久しぶりに祈祷をした。居室の片隅に、亡き母の形見ともいえる古い小さな仏像が、真鍮と赤銅との少しの金具を鏤めた貧しい厨子に納めて、安置してある。その前に彼女は赤い小蝋燭をともし、跪坐して合掌した。
 祈祷の文句は折によって異る。仏教の経典の一節のこともあれば、道教の教義の一節のこともある。それを口中で誦しているうちに、身体は羽毛の如く軽やかになり、やがて意識は宙空に散逸する。――だが、この時、合掌した両手が重く感ぜられてきた。重苦しく下へ下へと引きさげられるのだ。いけないな、と彼女は意識した。だが両手は、いつものように自然に美しく上向しないで、重く下へとさがってゆく……。
 彼女は祈祷をやめ、平常意識に戻って、ほっと溜息をついた。額に汗がにじんでいた。――何か災があるに違いなかった。
 この予見された災のことを、彼女は、秦の不在中に来あわしていた陳振東に話した。陳は笑って取り合わなかった。然しその深夜、張浩が狙撃されたのである。
 この時の、全く些細な偶然――災の予兆を丹永が陳振東に話したということが、大きな結果を招いた。
 陳振東は霊界のことなどは全然信じない逞ましい精神を持っている。この精神は逞ましいと共に溌剌として健全だ。そして災害が予見されたということが、加害者に対する彼の激怒を煽り立てた。加害者が仲毅生だと分った時、彼の激怒は更に倍加した。
 仲毅生は嘗て、秦啓源を訪れてきたことがある。二度目に来た時は柳丹永にもちょっと逢った。五分か十分かの短い訪問で、別に用向もなかったらしいが、張浩に逢いたがってる旨をほのめかした。彼奴、商取引の仲間にはいりたがってるようだ、と秦は笑った。――この嘗ての訪問を陳振東は思い浮べた。それが丹永の予見と結びついて、なにか脅迫的なものを彼に感じさせもしたらしい。
 結果は奇怪な復讐となって現われた。――茲に前以て言っておこう。陳振東は二人の仲間を引き連れて、城内地区の裏町の薄暗がりで仲毅生を襲撃し、その左の耳を根本から削ぎ取ってしまった。
 この陳振東の心理の動きや仲毅生襲撃事件は、小説的に叙述すれば大変面白い物語になる。然しそれはこの物語の主題と大して関係ないから止めよう。
 さて柳丹永のことだが、彼女は午後の陽ざしを浴びて、中庭へ出る石段の上に佇み、数株の落葉樹の植込みを無心に眺めているうち、突然大声で言った。
「血の色見ゆ、血の色見ゆ。」
 その言葉を彼女は意識して、恐怖に打たれ、室に戻ろうと振向いた。そこに、楊さんが、驚いて目を見張り口をあけて立っていた。
 その腕に丹永はすがりついた。身体がひどく違和の感じだった。
 楊さんに援けられてベッドに就いた。
 楊さんは張浩の時の予兆も知っていただけに、少しく慌てたのである。私もそれを聞いて、ちと肌寒い思いをした。
 然し、今になってみると、この時の丹永の霊感は何を指示するものだったか明かでない。仲毅生が耳を削がれたのはその前日のことであったし、また、その翌々日には彼女自身が喀血した。

 夕景にはまだ少し間がある頃、秦啓源から私のところへ電話がかかってきた。――一緒に飯でも食べたいからこちらに来てくれないか、というのだ。
 元気な声だった。薄曇りの空が晴れたような安心を私は覚えた。
 彼はパレス・ホテルに一室を取っていて、大西路の家とまあ半々の生活をしていた。謂わば大西路の方は私邸であり隠棲であり、パレスの方は公館であり事務所であった。

 私のところからパレスまでは近い。私が行くと、彼は電話で知らせた通り、階下の広間でお茶を飲んでいた。陳振東が同卓にいた。用談を済ましたところらしかった。
 彼はパレスにいる時としては珍らしく、支那服を着こんでいた。顔には清新な色合があった。平素、彼の頬の皮膚にはなんだか血色のうすい荒みが漂っていて、一種の心身の消耗を思わせるものがあったが、それが冷水で洗い落されたような工合であり、澄んだ深い眼差しと秀でた鼻筋とがしっとりと落着いていた。その顔を私は久しぶりに美しいと観た。それから久しぶりの彼の支那服の襟元の刺繍を眺めた。
「洪正敏に逢って来たところだ。」と彼は言った。
 私は黙ってうなずいた。他に返事のしようもなかったのだ。――洪正敏というのは、南市地区に潜居してる青※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]《チンパン》の大頭目である。その頃、青※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]の頭目としては朱鵬がいて、洪正敏は全く隠退し、表向きに顔を出すことはなかったが、然しその潜勢力は朱鵬を凌ぐものがあると言われていた。
 私が珈琲をすすってる間に、秦は陳振東と数語を交わし、陳振東は私の方に鄭重な辞儀をして、外へ出て行った。
「凡て済んだよ。」と秦は晴れやかに言った。
 私は洪正敏との面会の模様を聞きたかった。秦は何一つ隠そうとしなかった。打明けて話すのが楽しそうでもあった。――珈琲をすすり、煙草をふかし、それから、ごたごた散らかってる室に行って、支那服を背広と着かえ、わざと時間をつぶし、少し後れめに上階の食堂へ行き、食事をしたのだが、その間に彼は断片的に話した。
 その断片的なものを、茲に綴り合してみよう。
 はじめ、洪正敏が逢ってくれるかどうかが危ぶまれた。然し秦は是非とも彼に面会する必要を感じた。朱鵬などは問題でなく、洪正敏でなければいけなかった。
「僕の見解は正しかった。りっぱな人物だ。」と秦は言った。
 彼は使をやって面会を求めた。明日の午後二時に……との応諾だった。
 彼は支那服をまとい、自動車に乗り、陳振東を連れ、部下の一青年に道案内されて行った。
 南市の純粋な支那街の一角に自動車を留めると、そこの路地の入口に、一人の男が待ち受けていた。秦は陳振東と案内者とを自動車に残して、男に導かれた。
 路地をはいり、幾つもの門をくぐり、階段を上って、思ったより狭い室に導かれた。その間、案内の男は彼の右手に寄り添い、幾度か彼の右脇に触れたらしかった。彼は内心で苦笑して、左脇の懐をそっと押えた。そこに、小さな拳銃をひそめていたのである。
「万一の用心だ。」と秦は言った。「仲毅生のことも先方に知れてる筈だったからね。」
 室の中には、壁面に多くの書画の掛物、机上に陶製や銅製の古い花瓶、窓際に多くの椅子……そして片隅の机上に、写真帳が堆く積まれていたが、それは各地の風光の写真らしく見えた。
 案内の男は他の男と代り、秦は中央の小卓の前の榻に腰をおろした。煙草と茶とが出た。――面会中それだけのもてなしだった。
 洪正敏が出て来ると、男は秦啓源を改めて披露した。洪はうなずいて、秦を見た。秦は鄭重に挨拶した。洪は男を室から去らして、小卓ごしに秦と向い合って席についた。
「あなたのことは知っていた。私からも逢いたく思っていた。」と洪は笑顔で言った。
 七十歳に近い洪は、まだ矍鑠たるもので、肩には肉の厚みも見え、髪は短く刈り、顔色は浅黒く、太い眉と細めの眼とが特徴である。そしてその顔にも態度にも、善良そうないたわりの気味が現われてるのを、秦は意外にかつ不思議に感じた。なにか予期に反したのである。
 この予期外れが、対話をも予期外れのものとなした。秦は腹蔵なく語り出したのである。
 彼は上海の内臓を探るつもりで金属の商取引にも手を出したが、多くの豪壮な建築に地下室が殆んど無いことから、他のことを発見した。泥土地帯の上に構築されたこの都市は、地下三尺のところはもう水である。豪雨があれば、目貫の街路にも出水三尺に及ぶ。四百万から五百万の人口がその水上に住んでいるのだ。これらの人々が作り出す汚水はどう処置されているか。浄化所は今のところ三ヶ所あって、通風、撹拌、消毒、沈澱などの工作の後、河中に放出されているが、その浄化所へ汚水を導くポンプには、莫大な電力が消費される。然しこの汚水浄化系統の地区は全市から見れば僅少なもので、大部分の地区、殊に支那人居住地区では、汚水は馬桶《モードン》から舟に移され、舟で田舎へ運ばれ、肥料として売却されている。この売上代金は更に莫大だ。嘗ての工部局時代、右の電力費用は年に約百万元だったし、汚水売却の収入は年に約千万元だった。
「この事実をどう見られますか。」と秦は言った。
「その御質問の意味は……。」と洪は問い返した。
「上海が農村を愚弄してることについて腹が立つのです。上海が真の近代都市ならば、汚水浄化に何百倍の電力を消費しても構いませんが、真の中国の都市ならば、余った汚水は極めて安価にあるいは無償で農村に配布すべきでしょう。」
 洪は真面目にうなずいて、秦の顔をじっと眺めた。
「私は上海の人間も嫌になりました。」と秦は言った。
 そして彼は、彼の家にいる梅安の話をした。田舎から来てるこの女中は、その郷里に小さな女の子を一人持っていた。秦は彼女に、日本の知人から貰った友禅金巾の反物を与えた。年末近くのことだった。彼女はその金巾を、夜更けまで裁縫し、最後には徹夜までした。楊さんからそのことを聞いて、彼女に問いただすと、彼女は田舎の娘のために、正月の晴衣を縫ったのだ。正月のまにあいますようにというのが、彼女の一心だった。――今年ももう年末近くで、秦は梅安のこ
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