は、僕はへんに心残りを感ずる。これは僕の方の一種の霊感だが、あれは長くは生きまい。」
秦はしみじみと言った。私はなにか冷い空気を感じて外套を着た。秦も外套を着た。このような時、蟹でも食べに出かけたいのだが、もうその季節も過ぎていた。その上、秦は何かを待ってる様子で、二三回腕時計を見た。
彼が待ってるのは、陳振東だったらしい。陳振東がはいって来ると、彼は居ずまいを直した。
陳はなにかてきぱきと報告した。秦はその一語一語にうなずいてみせた。それから私に言った。
「玄元禅師が、明朝、丹永のところに来てくれるそうだ。あれも安心することだろう。」
その配慮は適宜だったし、秦の霊感もただの杞憂ではなかったと、あとで思いあわされた。――先廻りして言っておこう。丹永は翌日の朝、可なり多量の喀血をした。一時意識を失い、次に恐怖に襲われた。恐怖の後に、平静な衰耗状態に陥った。そこへ、粗服のなかに顔面だけが明朗に輝いてる玄元禅師が来た。禅師は二時間ばかり丹永のそばに坐っていた。祈祷もなく、説教めいたこともなく、沈黙のうちに時々短い言葉を彼女にかけた。彼女も短い言葉で返事をした。午後になると、彼女の表情は、硬直か緊張か見分けのつかない状態のうちに凝り固まった。医者のことを言われると、はっと眼が覚めたように執拗に拒絶した。晩になっても同じ有様で、その夜更け、彼女は秦の手先に縋っていたが、その手の力が俄にゆるむと、ごく静かに、殆んど苦悶もなく、息絶えてしまった。――この柳丹永のことについては、いつか、心静かに私は語りたいと思う。
パレス・ホテルの一室で、私は丹永のことを思い浮べていた。陳振東が秦になにか言うと、秦は微笑して私に言った。
「陳君は、大西路の家に帰れと僕に勧めているんだ。」
「勿論、そうしなくてはいけないよ。」と私は答えた。
「あちらに帰ると、上海が薄らぐ。もう一晩、上海を楽しんでもよかろう。」
それにはなにか皮肉な残忍なものが籠っていた。私はそのものから眼をそらして、陳振東に話しかけた――以下の対話は、秦が中間で通訳してくれたものである。
「陳君は、上海をどう思いますか。」
「下らないが面白いと思います。」
「というと、人間の低俗さとそれに対する興味ですか。」
「少し違います。……まあ、腐りかけた牛肉の旨さですね。」
見たところ平凡でただ強健な彼は、明晰な見解を具え
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