ムさえもあった。
 上海には多くの豪壮な建築があるが、どれにも地下室はない――これは秦啓源の言葉であって、地理的条件から来る実状ではあるが、また比喩とも受け取れる。嘗てはその滞貨が世界の都市中でニューヨークに匹敵すると言われた上海も、随分と貧寒にはなったけれど、まだまだ莫大なものを埋蔵している。而もすべてに於て商賈の市場で、金力の前には地下室がないのだ。但し、国際的性格のこの都市は、他国人に対しては慇懃であっても、同国人同士の間では、殊に※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]《パン》関係の間では、一種の繩張りとか仁義とかが多少とも存在している。秦啓源は故意に、張浩をしてそれをすべて踏みにじらせた。深夜、静安寺路の街頭で、張浩が狙撃されて落命したのも、実はそれが一つの原因だったのである。
 この事件について、秦啓源は巧みに自分の名前を隠蔽したし、また警察側の探査を緩和せしめるような態度を取った。事件は闇に葬られた――上海では珍らしからぬことだ。然し、秦啓源は自分の方の不用意を認めたし、またあの夜、東京での旧知星野武夫と久しぶりに飲み歩いたにせよ、自分一個の感慨に耽りすぎた不覚を認めた。それから、張浩への加害者は仲毅生であることをやがて探知した。仲毅生といえば、上海では青※[#「邦/巾」、第4水準2−8−86]《チンパン》のうちに可なり顔の売れてる男であるし、張浩ももとはその仲間だったのだ。そして一ヶ月ばかり後、秦啓源の腹心の部下たる陳振東の手によって、仲毅生へは特殊な復讐が行なわれたのである。
「遂に機会が押しかけて来た。」と秦は私に言って、複雑な微笑を浮べた。
 その言葉には、なにか冷りとする気味合があった。私はいろいろ推測して、張浩に関することであろうかと思ったが、実はそんな単純なものではなかったことを、今では理解している。
 その日、私は松崎の事務所で碁を打っていた。訪ねて来た男があるというので、廊下に出てみると、楊さんだった。普通に楊さんと呼ばれている六十年配のこの男は、秦啓源の愛人柳丹永のもとで、その保護者と従僕と料理人とをかねたような妙な地位にあった。狡猾なのか朴訥なのか分らぬ人物で、日本語も英語も可なり正確に話したが、決して長い文句は口にしなかった。
 その楊さんは私を見ると秦啓源に至急逢いたいと言った。秦が今どこに居るかは私にも分らなかった。
 楊さ
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