[#ここで字下げ終わり]

 それが何度もくり返される。コップを叩く者がある。足を踏み鳴らす者がある。わあっという騒ぎ……。
 他に殆んど常連というのがない。彼等だけでカフェー全体を占領してる形である。
 和田弁太郎は一人黙って酒を飲んでいる。だから早く酔っ払う。半ば自棄になって、将軍みたいな足取りで歩き出して、合唱に加わる。それをお喜代が面白がってはしゃぎ出す。だが、畜生、貴様の知ったことか、とそんな気持で、彼は女学生の讃美歌合唱を頭の中に描きながら、ばかばかしく声を張り上げる。
 そういう騒ぎが、或る晩突然中断された。
「おい、公爵令嬢、君は何度キスを許したんだ。」
 そう云って、慷慨悲憤癖のある男が――例の、大地震の時に一同がはいりこむことになっているその寝台の男が、お喜代に向って、しつこく、尋ねかけ初めたのである。
「刺繍になら、キスを許すも許さないもないわ。あたしからしてやるのよ、ええ幾度でも。だって、始終首のまわりにつけてるんじゃないの。」
「ばか、白ばっくれてやがる。そら、その刺繍じゃない。そら、あの刺繍さ。」
「どの刺繍。」
「刺繍の男さ。」
「そんな男があって。」
「あるじゃないか。」
「そう。教えて頂戴。」
 そこへ額の白い一人がはいりこんでくる。
「もういいじゃないか、それくらいで……。白っばくれるのは、何より有力な証拠さ。そして、一度あれば、二度三度と……当り前じゃないか。」
 それでも「慷慨悲憤」はなお、お喜代の口から白状させようとする。彼は何かしら、「刺繍」に――絹ハンケチを買ってやった者に、反感を懐いてるらしい。その晩「刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]」が一人室に残って手紙を書いてることからきたものらしい。
「知らないわ。」
 お喜代はぶっきら棒にそう云って、わきを向いてしまう。
「それみろ、」と「白額」が云う、「公爵令嬢の御機嫌を損ねたじゃないか。」
「いやこれは失礼しました。」と「慷慨悲憤」はとぼけた態度に出る。私はただ、御令嬢のキスの価何程なりやと、そういう疑問を起しましたものですから。」
「何だって、」と他の一人が乗り出してくる、「キスの価が何程なりや……。」
「そうさ、」とまた急に調子が変る、「例えば、刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]絹ハンケチ一個に対して、何回のキスを支払うか、という問題さ。」
「そいつは面白い。是非解決すべき問題だね。」
 お喜代はつんと澄しこんでいる。たるんだ頬の肉附が緊張すると、妙になま白い彫刻的な横顔にみえてくる。
「勝手にするがいいわ。あたしはキスを切り売りなんかしませんからね。好きな人にはただで許してやるわ。だけど、あなた方なんかには御免だわ。」
「こいつはお手酷しいね。まあそう云わないで、どうだい僕に一つ。」
「僕にも一つ。」
「俺にも一つ。」
「はははは。」
 反応がなくて、手持無沙汰になって、出すぎた冗談が自分に戻ってきて、彼等は思い出したように杯を取り上げる。
「おい、お酌くらいはいいだろう。」
「はーい。」
 ばかに大きな声を出して、お喜代は顔の筋肉一つ崩さないで銚子を取り上げる。
「君がそうして怒った顔は、また別な趣きがあるね。」
「まあー、お止しなさいよ。」
 打つ真似をして、とうとう笑い出してしまう。それにつけこんで四方から、好奇な眼がぬうっと伸び出す。押しあいへしあい、前へ前へと出ようとしてる気色である。
「止せ、下らないことで一人の女をからかうのは。」
 胸の鬱積が高まってきて、和田弁太郎は思わずわりこんでゆく。皆その方を振返る。で彼はぎくりとするのを、むりに踏みこたえる。
「キスくらいが何だい、下らない。」
 一同の間にちらちらと目配せが行き渡る。
「ほう、和田にしちゃあ驚いたな。キスくらいが何だい、下らない……か。そこが、プラトニックの、その……。」
「いいさ、ねえ、」と一人がお喜代に言葉を向ける、「キスくらいが何だい、下らない……。」
「ええそうよ。」
 これはまたきっぱりとしている。余りにきっぱりとしているので、誰も一寸口を出さない。
 煙草の煙と酔っ払った人いきれとで、もうっとした春の夜である。しいんとなったとたんだけが底寒くて、後はむしむしとする。
「そうさ。」
 プラトニックに対して時置いて応えたのが、お喜代に応えた形になって、和田弁太郎は一寸ためらう。
「ねえ[#「ねえ」は底本では「えね」]。」
 言葉の受け答えが、そのまま咄嗟の気持になってゆく。
「うむ。僕と君と、ここで皆に証明してやろう。」
 つかつかと歩み寄ると、彼女はじっと身動きもしない。その肩を捉えて、唇を頬に持ってゆく。それから我を忘れて、唇の上に……。
 一同は気を呑まれて、息をつめている。和田弁太郎も茫然とつっ立ってしまう。お喜代が一人、くくくく
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