男一匹、何にもしないでおられるわけはない。なにかかにか、用をしたり、考えたり、然し結局、何にもしないと同じことだ。
「いったい、どうしたんですか。」
「ただ、お逢いしたかっただけ。」
 彼女は眼尻で笑い、山田は溜息をつく。
 ちょっと来い、ちょっと来い。鳥の声と同じで、何も用はないのだ。腹を立てるほどのことでもないが、なにかしら苛ら立たしい思いで、山田は煙草を吹かす。
「また……はじまった。悪い癖だ。酒でも奢んなさいよ。」
「それこそ、悪い癖よ、なにかをいえばすぐ、お酒だって……。」
 彼女は大して酒好きではない。ただ、山田と一緒に飲むのが楽しいというのが、彼女自身の言い草である。そして、酔えばなにかと口舌が始まる。それも大した口舌ではない。つまり、下らないことをあれこれ並べ立てて、愛情の保証を求めようとするのだ。然し、愛情の保証なんて、世の中にいったい確実なものが何があるか。結婚とは、いつでも破ることの出来る形式に過ぎない。子供を拵えることは、無意識の偶然の現象に過ぎない。起請誓紙などは、古めかしい反故に過ぎない。だから、ちょっと来い……そしてすぐに来る。それだけが最も確実な保証なのだ。
「それでは、いつでも来て下さいますね。」
「この通り、来ていますよ。」
 然しそれが、週に一回とか五日に一回とかならば、まだよいが、次第に頻繁に、殆んど毎日のようになっているのである。山田の頭に憂欝なものが立ちこめる。それでも彼は、美津子の結び文を心待ちにし、それが来ないと、自分の方からのこのこ出かけて行く。彼女の方からは彼の家にあまり来ない。
「やっぱり、いらしたのね。」
 そして簡単な握手とキス。中年の男女の爛れたような情慾はそこにない。ただなにかしら投げ出しきったような愛慕だけだ。山田は泊ってゆくこともめったにない。
 そういうさなかに、事が起ってきた。
 美津子は奥の八畳の室に起居している。廊下を距てた離室みたいな造りである。母屋の方に小母さんたち一家族が住んでいる。山田の所へ結び文を持ってくる少女は、小母さんの娘だ。この一家族は美津子の親戚筋に当るが、美津子がどう言いくるめたのか、山田と彼女との関係には一切干渉しないことになっている。その他の点では、同居とも下宿ともつかない大まかな共同生活である。
 ところで、或る日、烈しい突風が吹き荒れたが、それから後、時折、美津子の
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