にもぐり込んでいた。
笹部と喜代子とがやって来た時、中野さんはまだ晩酌を続けていた。二人をその席に通さした。
「こんどは大変相すみませんことをお願いしまして……。」
別に悪びれた風もなくそう云って、笹部は落付いて座に就いた。
中野さんはもう少し酔が廻りかけていた。女中に何かつまみ物を云いつけて、すぐに笹部へ杯をさした。
「寒いところを御苦労でしたね。まあ一杯やって温ったらどうです。」
笹部はこの前と同じ手付で杯を受けて、ぐっと一息に干した。それから、よく利かない箸先で小皿のものをつまんだ。
相変らず大きな手先だ。
そして中野さんは彼の顔をじろじろ見調べてみた。よく整った顔立ではあったが、やはり全体が醜い感じだった。髯のなさそうな皮膚に艶が褪せていた。
やはり俺の眼に誤りはない、とそう思う気持が眼付に籠っていった。と共に、笹部は、そして喜代子までが、その視線の下に変に固くなっていった。
共通に興味ある話題は一つも見付からなかった。中野さんは沈黙の中途でふと思い出したように尋ねた。
「君は一体、収入はどのくらいあるのですか。」
「殆んどありません。」と笹部ははっきり答えた。
「殆んどない……。」
「全く不定なんです。詩を書いたり童話を書いたりしていますが、いくらにもなりません。」
「それじゃあ困るな。どこかへ勤めたらよいでしょう。」
「うまく勤められそうにもありません。それで、これから小説を書いてみるつもりです。」
「ほほう、小説なら金になるでしょう。」
「それにしたって、大したことはありません。まあ一生貧乏するつもりです。貧乏は初めから覚悟していて、平気ですから。」
「それでもやはり、困るでしょうがね。……喜代子、お前は平気なのかね。」
「ええ。どうしても食べられなくなったら、あたし女中奉公でも女事務員にでもなるつもりですの。」
「それも今のうちはいいが……。」
子供でも出来たら……と云いかけて、中野さんはそれを呑みこんでしまった。喜代子の顔に真剣な気脈が動いて、それが美しくぱっと輝いたような気がしたのだった。
中野さんは変に腹がたって来た。
「まあ然し、何でも若いうちのことだ。」
そして眼瞼のたるんだ眼をぎろりとさした。
「君は酒はいくらも飲めそうだが、杯の持ち方は酒飲みらしくないね。こんな風に持たなくちゃまずいよ。」
三本の指をそえた人差指と親指とで、軽く杯を挙げてみせた。
「あ、そうですか。」
笹部は平気で、示された通りの持ちようを真似た。その手先がやはり不均合に大きかった。
「わたしは少し観相の方を研究してみたことがあるが、君の相は……中以上のように思える。まあしっかり勉強するんだね。」
最後の一句をとってつけたように早口で云って、中野さんははははと笑った。
それが不意に、一座の空気を一変さしてしまった。笹部はじろりと中野さんの方を見て、それから執拗な眼付を膝頭に落した。喜代子はぽーっとした赤味を頬に上せた。もう出来上った一人前の女の顔付だった。
「叔父さま、昨日お願いしましたことは……。」
「うむ、聞いてあげるよ。」
中野さんは云い捨てて立上った。足元が少しふらついていた。それをどしんどしんと踏みしめて、奥の室から紙幣の束を持ってきた。
「これを持ってゆくがいい。入用なだけある筈だから。」
それを手に取った喜代子の眼が、また黒水晶のように光ったようだった。
「有難う存じます。」と笹部は低く頭を下げた。
「なあに、礼には及ばないが……度々こんなことのないようにして貰いたいね。」
中野さんはひどく不機嫌になっていた。笹部と喜代子とが帰ってゆく時、座も立たなかった。
何という奴だ。……またあの喜代子までが一緒になって……。
それでも、ふっと……日の蔭るような風に、眼頭が熱くなってきた。それから便所に立った。ぞっとするような寒い晩だった。
中野さんはまた改めて熱い銚子の前に坐った。そうしてうとうとと酔いかけているうちに、いつのまにか知らず識らずに、醜く醜く……といったような気持で、大きな口をあちらこちらに歪めたり、眼瞼のたるんだ眼をぼんやり見据えて、太い眉をぴくりぴくり顰めたりしていた。
誰を何を、愛していいか憎んでいいか、それがごっちゃになっていた。
さらさらと雪が落ちるような気配に、中野さんは我に返った。そして茶の間の方へ立っていって、年上の女中に尋ねた。
「あの男をどう思う。」
「そうでございますね……。」
女中は口先だけで答えながら、また怪訝そうに中野さんの顔を見た。
「やはり大きな手先だね。」
「でも……手先の大きいのはよいと申すではございませんか。」
「ふーむ……。」
うわべだけは尤もらしく首を傾げながら、中野さんは頭の底に、喜代子の黒水晶の眼の光を思い浮べて、なぜ笹部の顔に紙幣を投げつけてやらなかったろうかと、そんなことを残念がった。そしてひどく不機嫌に腹立たしくなった。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
1925(大正14)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
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