叔父
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)不綺麗《ぶきりょう》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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中野さんには、喜代子という美しい姪があった。中野さんの末の妹の嫁入った武井某の娘だった。
中野さんと喜代子の母とは、母親が違うせいもあったし、年齢も可なり違っていたし、余り仲がよくなかった。その上、中野さんは富有で羽振のいい方だったし、武井の方は零落した貧しい生活をしていたので、両家の交誼はごく疎遠なものだった。それでもやはり、中野さんにとっては、喜代子が美しい姪たるを妨げなかった。
喜代子は時々――といっても二ヶ月に一度くらい――中野さんの家にやって来た。
中野さんには大勢子供があった、男の子や女の子が。そして皆、中野さんに似て不綺麗《ぶきりょう》だった。その中に交ると、喜代子は一段と美しく見えた。
中野さんは美しい喜代子を好きだった。生れて一度も剃刀をあてたことのないような、すっと一の字に引かれた眉、白い頬に浮出してる長い揉上の毛、真黒な房々とした髪――無雑作に取上げて後頭部でくるくると束ねた、両手に握りきれないほど多量な髪、どれもみな、処女眉、処女揉上、処女髪だった。そして、それにふさわしい眼付と顔立。彼女を見ると中野さんはいつも、赤い粗らな髯の下の大きな口付を他愛なく弛めて、独り嬉しそうににこにこしていた。
そして不思議なことには、中野さんは一度も喜代子の結婚について考えたことがなかった。喜代子を自分の子供の誰かに貰ってやろうとか、またはいいところへ世話してやろうとか、そんなことはまるで忘れてしまっていた。喜代子はもう学校も卒業しているし、年も十九になっていたが、中野さんにとっては、いつも、そしていつまでも、無邪気な処女だった。
三月はじめの或る日曜日に、喜代子は菜の花を沢山持ってやって来た。そして座敷の床の間の花瓶にそれを生けようとした。がどうもうまくゆかないらしく、しまいには変にじれ出してしまった。
それが中野さんには面白かった。が中野さんはもっともらしい口の利き方をした。
「菜の花だけを生けようったって無理だよ。何かしんになるものがなくちゃあ……。」
「いいですわ。」と喜代子は不機嫌そうに答えた。「あたし菜の花の畑を表現してみるつもりなんだから。」
「表現はよかったね。」
だが中野さんの調子は、少しも皮肉ではなく嬉しそうだった。
「ええ、表現するのよ。」と喜代子は平然と云ってのけた。「暖くなったらあたし、菜の花ばかり咲いてるところに行ってみるつもりなの。」
「そんなところがあったかな、東京の近くに……。」
それきり喜代子は黙り込んで、どうにか菜の花を生けてしまった。
その室咲きの余り匂わない菜の花を見い見い、中野さんは大きな紫檀の机に向って、いい気持で、調べ物の続きをやりだした。
喜代子は向うの室で、小学校に通ってる末の子供達の相手になって、その試験準備をみてやっていたが、暫くすると、勉強の方はそっちのけにして、皆できゃっきゃっと遊び初めた。年上の方の娘までそれに加った。騒々しい笑い声の間々に、喜代子の澄んだ朗かな声が高く響いた。
中野さんは調べ物に気がはいらなくなって、日向の縁側に出て、ぼんやり庭の方を見ていた。植込の落葉樹の芽がふくらんで、地面は湿気を帯びて黒々としていた。
そこにひょっこり喜代子が出て来た。
「今日はばかに賑かだね。何か嬉しいことでもあるらしいね。」
「ええ……。」
言葉尻を濁してから、喜代子はふいに真面目な顔付になった。二つも三つも年が上のようになった。
「あたし……叔母さまが生きていらっしゃるとほんとにいいんだけれど……。」
「え、叔母さまが……。」
中野さんはびくりとして、喜代子の顔をみつめた。
「だけどいいわ。本当はお話があるんですの。叱らないで頂戴ね。」
「何を云うんだい、だしぬけに。叱りはなんかしないから、話があるなら云ってごらん。」
「今じゃないの。も少したってから……。」
伏せてた顔をふいに挙げて、じいっと見入ってきたその眼が、黒水晶のように底光りしていた。中野さんはまたびくりとして、一寸口を利きかねた。その間に、喜代子は黙って向うへ行ってしまった。
子供達はまた一しきりはしゃぎ続けていた。それが次第に静まっていった。
「どうしたの、喜代子さん。いやな人ね、考え込んでばかりいて。」
云ってるのは年上の娘の静子だった。
その静子が、後で中野さんにこんなことを云った。
「可笑しいわ、喜代子さんは。ふいに騒ぎだしたり、また黙り込んだりして、眼に一杯涙をためていらしたの。どうなすったんでしょう。」
中野さんにも腑に落ちなかった。黒水晶のような眼の光が、中野さんの頭の中に何度も浮んできた。
五月から六月へかけて、中野さんは会社の用件で満州の方へ旅をした。その旅行中に、意外な事件がもち上った。
喜代子には幾つも縁談がかかっていた。それを喜代子は両親から相談される度毎に、一言のもとにはねつけていた。所がその春非常によさそうなのが一つあった。帝国大学の病院に助手をしてる医学士で、家柄もいいし人格も高いし、将来有望な才能だということだし、博士論文の種を研究中の由だった。両親は可なり気乗りがした。喜代子はまだ結婚を急ぐほどの年齢でもなかったけれど、一つ年下の妹があった。それやこれやで、両親もしまいには度々喜代子に承諾を勧めた。然し喜代子はいつもきっぱりはねつけた。するうちに、喜代子は突然家をぬけ出して、笹部という余り有名でない詩人と同棲してしまった、というのである。喜代子はその男と以前から恋仲だったらしく、後で考えてみれば、度々怪しい手紙が来たこともあるし、中野さんの家に行くと云って出かけては、屡々外で逢っていたらしかった。
滅多に顔を見せたことのない喜代子の母は、自分で中野さんの家にやって来て、仕末に困って相談をもちかけた。
「私達もうっかりしていました。ふだんあんなに無邪気そうにしていたものですから、こんなことを仕出かそうとは、夢にも思わなかったのですよ。」
「そりゃあ誰だって……。」と中野さんは答えた。
「一度家に戻って来てくれるといいんですが、家に帰るくらいなら死んでしまうと云うし、その男がまた、私達は生命がけで……だなんて云ってるそうですから、もし無理なことをして万一のことでもあったらと、それも心配になりますしね、どうしたものか困ってしまったのですよ。それかって、このまま放っておくわけにもゆきませんしね。世間の口もうるさいし、もし新聞にでも出るようなことになったら、愈々恥を世間に曝すようなものですし……何かよい工夫はないものでしょうか。」
中野さんはその話を初め聞いた時にも、別段驚きはしなかった。驚かないどころか、何だか夢のようなお伽噺でも聞いてる気がした。それが自分でも一寸不思議な心地だった。そして、黒水晶のような眼の光をまた思い出した。
「じゃあその男と一緒になさったらいいでしょう。」と中野さんは落付いて云った。
「それが、まだ血統も何も分りませんし、詩を書く人だというきりで、下宿屋にごろごろしているというんですからね。」
「血統なんか調べたらすぐに分るでしょう。それに、詩人なんてものは、今日は下宿屋に転っていたって、明日は天下に名を知られるようになるかも分らないから。」
「へえー、そんなものでしょうか。」
「とにかく、その男と一緒になさるのが一番よい策でしょうね。」
「あなたがそんな考えだろうとは、思いもよりませんでしたよ。ほんとにわたしは、途方にくれてぼんやりしてしまって……。」
中野さんも実はぼんやりしているのだった。中野さんはどうかすると、ひどくぽかんとすることがあった。そしてそういう時、よく思い出す一事があった。
まだ中野さんが十歳くらいの時のことだった。実母が死んで若い継母が来ていたが、その新らしい母に対して、彼は実母に対するのとは全く違った気持でなつかしんでいた。喜代子の母が――二つばかりの赤ん坊だったが――胸に抱かれて乳を飲んでるのが、妙に羨ましく妬ましかった。そんな気持から、或る時ひどい悪戯をした。若い母はいつも日本髪に結っていて、鼈甲だの珊瑚だの瑪瑙だの、その他いろんな美しい玉のついた、種々の髪の道具を持っていた。彼はそれをそっと盗み出して隠しておいた。母は大騒ぎを初めた。漸く髪の道具は袋戸棚の中から見付ったが、彼は素知らぬ顔をしていた。そして翌日またその悪戯をくり返した。そこで彼の仕業だということが分った。母は乱れた髪のまんまで、彼を人のいないところへ呼んで、叱ったり歎いたりした。自分の産んだ子供と彼とを分け距てしてはいないだの、彼をも心から可愛く思ってるだの、何が不足で私をいじめるだのと、眼に涙を一杯ためて説ききかせた。聞いてるうちに彼は無性に悲しくなって、母の膝に取縋って泣き出した。それから、膝の上に抱き上げられて、泣きながら見上げた母の顔が、非常にやさしく美しく、神々《こうごう》しくさえも思えた。で彼はまた母の胸に顔を埋めて、震えながら泣き出した。
それを思い出す気持が、喜代子のことと何の関係があるかは分らなかった。いやそれは、喜代子のことなんかよりも、細君を亡くして多くの子供をかかえながら、未だに後妻を迎えないでいることの方に、より多く関係が深かったかも知れない。がとにかく中野さんは、喜代子の母親を――その当時の赤ん坊を――前にして、ぼんやりそんな変なことを思い出しながら、晴れやかな美しい幻を見たのだった。……あの美しい処女喜代子が生命をかけて恋している。相手の男はそれにふさわしい美しい人である。今は下宿の陋室にくすぶっているが、やがては二人の恋愛から……。
喜代子の消息は、それきり中野さんの耳へは余り達しなかった。勿論喜代子はやって来ないし、中野さんの方から武井家へ出かけてゆきもしなかった。
夏の暑い盛りになると、例年の通り、中野さんは家族連れで常陸の海岸へ行った。高等学校へ通ってる上の子は、友人と登山の旅に出かけたので、静子と中学二年の子と小学校へ行ってる二人の娘と、女中を二人連れて行った。
毎日いい天気が続いた。漁も豊富だった。毎年来るのではあるが、やはり海岸は爽快で物珍らしかった。
そこへ、或る日、喜代子からの桃色の封筒が配達されてきた。
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叔父さま。
何と申上げてよいか、ただ心から感謝いたすより外はございませんの。私は叔父さまに叱られるのが、誰よりも何よりも恐ろしゅうございました。そして、こんどのことについて、叔父さまこそ一番ひどく御怒り遊ばすものと存じておりましたのに……。ああ、何と申上げたらよろしいでしょう。叔父さまが一番よく私達のことを理解して下さいまして、そして真先に私達に同情して下さいましたことを、後で知りました時、私はもう泣き出してしまいそうになりましたの。叔父さまのお影で、私は凡てのことを許されました。父も母も許してくれました。そして私はもう公然と笹部と一緒に、自分の信ずる途を辿ることが出来るようになりました。
今から思いますと、私はあの時どうしてあんなことが出来たのか、自分でも恐ろしい気がいたしますの。でも私は、私の心は、ああするより外に致し方はなかったのですもの。やはり信じて進むことは大きな力でございますわ。叔父さま、どうぞ私達を信じて下さいませ。私達が本当の途を進んでることを、信じて下さいませ。
私は今、晴れ晴れとした力強い心で、叔父さまに御礼申すことが出来る気がいたしますの。ただそれだけ、それだけを申上げたくて、手紙を差上げることにいたしました。海からお帰りになりました頃、笹部と一緒にお伺いいたしましてもよろしゅうございましょうか。笹部もどんなにか感謝いたしておりますの。叔父さまは私達にとって、ほんとに力でございますの。
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