ことを私が説きだすと、あなたはふいに――意外にも――泣きだしてしまった。なぜあなたは泣いたのか。それはあなたの本心ではあったろう。だが、本心というものは、前後の見境もなくさらけだすべきものではない。私はあなたのその涙に誘惑された。
硝子張りの明るい湯殿で、のんびりと湯に浸りながら、暮れかけてる空を眺めた。それから酒をのみながら、丘陵の間の、松や杉の木立の影の、小さな村落の藁屋根から立昇る煙を眺めた。丘陵の谷間に夕靄が立ちこめると、いつのまにか月が出ていた。そうしたことが、旅に似た気分を私達に与えたにもせよ、そして旅にある男女は恋愛の危険に最も曝されるにせよ、あなたの涙がなかったならば、私は恋愛の楼閣を築き初めはしなかったろう。「もう遊びはいやです。あたしをほんとに愛して下さいますの。」あなたは泣きながら云った。「私一人を守って下さるなら……。」と私は云った。おう、何という言葉遣いをしたものか。そういう云い方を何が私たちにさしたのだろう。もうそれは遊びではなかった。私たちは誓った。大船から横浜をすぎて品川を出るまで、自動車の中で、私たちは手を握りあっていた。
その誓いを私たちは守った。そしてそれからは、公然と振舞った。ホールへ行ってもあなたは私とだけ踊った。銀座の人中をも二人で歩いた。友人たちが出入するカフェーへも私は平然とあなたを連れこんだ。あなたの応接室で煙草をふかしながら新聞を見てる私の姿も、いろいろな人の目についたろう。二人そろって自動車に乗り降りするところも、いろいろな人から見られたろう。だが構わない。私は信念を持っていた。私はあなたの心を信じ、また、自分があなたを愛してると信じ、そうした信念に生きてゆこうと覚悟していた。その信念が多少ともぐらつく度に、自分で自分の心に鞭打った。信念がゆらぐのは、生活の様式から来るのだと考えた。ダンス、カフェー、芝居、麻雀……最も平凡な最も有閑的な娯楽、それがいけないのだと考えた。それ故に、私はあのまじめな計画、農園の計画に、本気で身を入れ、あなたにも相談し初めたのだった。
東京にまい戻ってから、私がいろいろな仕事を考え廻したこと、そして最後に農園経営に心を向けていったこと、その消息はあなたもよく知っていよう。私はロンドンやパリーの郊外に於ける菜園の現状を調べ、その集約的栽培法の理論と実際とを研究し、肥沃土の人工的製作
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