於ける孤独の感じは如何ともし難いだろう。その時彼等もやはり自然を想い、また旅を想うであろうか。――私は彼等の心と相通ずるものを懐いて上海からちょっと旅に出た。
*
上海ほど自然の美に恵まれない都会も少い。また上海ほど、事変による廃墟や戦場を除いて、名所古跡に乏しい都会も少い。僅か百年ばかりの間に急激に発展した海港だけに、人口が増すにつれて必要な、建築物だけが立ち並んだに過ぎない。街路が狭くて並木を植える余地もなく、並木らしい並木はジョッフル街に見られるくらいなものである。支那家屋にしても、街路からはただ、薄暗い室房の重畳が見られるだけで、その白壁や屋根の景観を得ようとすれば、百貨店などの屋上に登らなければならない。
古い歴史と伝説とを持ってるものとしては、呉の時代からのものとされてる静安寺があるきりで、支那第六泉の称があったと伝えられてるその井戸も、今では、街路の中央に跡形だけを止めてるに過ぎないし、他に旧跡の見るべきものも殆んどない。北部の新公園は極東オリンピックの跡とて、運動競技場にふさわしいだけであり、西部のジェスフィールド公園はただ老人の散歩場所にふさわしく、学生などがここを歩いてるのも他に逍遙の場所がないからのことである。また蘇州の東呉大学ほどの美しい大学も上海には恐らくあるまい。
郊外のクリークのほとりには、多少の鄙びた美景もあるかも知れないが、戦火に荒された後のこととてそれを探る由もない。然し汽車の窓から眺めたところでは、青々たる麦畑の中を大きい帆が悠々と滑りゆくような蘇州辺の光景は、上海郊外には何処にも見られなかった。張継の詩で有名な寒山寺横の楓橋あたりの運河の眺めは、平凡ななかに特殊な風趣を含んだものであるが、それに似寄りのものでも一つ上海郊外に欲しいと思われるのであった。
或は、そういう場所が上海郊外にも見出せるかも知れない。然し誰も探しに行こうと思う者さえない。上海は人を市内に引止めて離さないのだ。ここにも上海の何かの特殊性があるのであろう。
蘇州郊外の霊岩山からの太湖の眺めや、鎮江の甘露寺からの揚子江の眺めや、杭州の銭塘江の鉄橋上からの眺めなど、そういう贅沢なものまでほしいとの要求を上海にはなすまい。また、杭州の西湖は別として、楊州の通称西湖は大運河の名残りの川沼であり、南京の秦淮河は灌水の濠であり、そこに浮ぶけちな画舫ぐらいなものは上海にもあってよかろうと、甚だ謙遜な要求をもなすまい。玄武湖から見る南京城壁の美観はともかく、多少の城壁ぐらいは上海にもあってよかろうと、つまらぬ要求をもなすまい。実は上海には何もなくても、人をその市内に繋ぎ止める。この自然の美も名所旧跡もない上海へ数日の旅から戻って来て、私は何となく一種の郷里へ戻ったような安易さを覚えた。
何故であろうか。昔はそれぞれ王城の都たりし杭州でも蘇州でも南京でも、その夥しい名所旧跡や美景にも拘らず、今では、文化的に、上海に比ぶれば田舎町の感じがするからである。そして上海にこそ、語感が互に通じ合い親しく語り合うことが出来そうな未知の友人が数多くいそうな感じがするからである。
然るに、ああ然るに、上海は前述のような文化的孤島の現状であり、そこの文化人は前述のような状態であるとするならば、その上なお、東洋文化を軽蔑圧迫せんとする或種の気風が其処に巣喰っているとするならば、如何にしてこれを新たに明朗に建て直すべきであろうか。
上海は、租界なるものがあるために、パスポートなくして上陸出来る恐らくは世界で唯一の海港であろう。このために思わぬ功徳をなすこともある。ナチ・ドイツから逐われたユダヤ人で、上海に逃げこんで来てる者が既に一万八千人ある。うち一万一千は日本警備地区の楊樹浦辺に住んでいる。多少の財産ある者はいろいろな商売を始めていて、その一つのバー・タバリンは相当名を知られており、酒は粗末だが、気易いダンスが行われ、主人は頭の禿げた愛嬌者で、興至れば自ら歌い且つ踊って見せる。けれども二千二百は全くの窮民で、幾団かに分れて共同生活をし、炊出しの救済を受けている。この救済費用がアメリカから来ると聞いて、私は云うべき言葉を知らなかった。だがこのユダヤ人問題の衝に当ってるI氏は、彼等の国有の伝統的生活を立派に営ませてやるつもりだと断言された。ただ、目下救済を受けてる人々のうち、青年や壮年の者までが多くぶらぶら遊んでいるのは奇異の感を懐かせる。彼等はみな相当の知識人で、労働には適せず、適当な仕事を待っているのだそうであるが、いつそれが与えられるようになるであろうか。
海からはパスポートなしに上陸されるが、上海の上空は一層無防禦で各種のラジオ放送が自由に流れこんでくる。そしてここに、奇怪な放送戦が展開されている。互に妨害し合いまた進出し合っているらしいが、或る処で偶然聞いた重慶からの放送には、盛んに日本軍敗退のデマが飛ばされ損害其他詳しい説明までなされていた。このうち、日本語のもの二回あったが男声のは明かに内地人の声ではなかったけれど、女声のはその抑揚から音調に至るまで清澄な東京弁であった。ただその声に一種悲痛な胸迫るものあるのが感ぜられたのは、強制的に放送をさせられてるとの予想の下に、祖国につながる女性の血を想いやる憐愍の情からの故であったのであろうか否か。
これら種々のことは容易に頭の中でも整理がつかない。Y君が紹介してくれた街の伊達者某君は、瀟洒な華奢な青年だが、恐らくは百数十名にのぼる支那人の子分たちを駆使しながら、華かなまた闇黒な巷を闊歩している。私は彼に或る世話になったが、次で彼の姿を求めようとすれば、もはや彼は何処かへ没し去って、捉えん術もなかった。私は一人街路を彷徨し、好きな老酒を飲みながら、額を押えて中国人の未知の友のことなどを考え耽るばかりであった。
その老酒の、六十二年たったという秘蔵の珍品を、ふとしたことから私はさる料理店主から一瓶分入手して、ホテルの卓上に据えていたところへ、丁度三木清君が上海にやって来た。私達三人は三木君を拉して、南京料理屋へ赴き、六十二年の老酒の杯を挙げ、私はなお足りずに、そこの老酒をしたたか飲み、随分と酔ってしまった。上海の未知の友には逢えなかったが、日本の友に会したのが嬉しかったのである。
茲に私事をつけ加えれば、私達三人というのは、上海行を共にした加藤武雄君と谷川徹三君と筆者とのことである。谷川君は各種の調査や骨董あさりに疲れながら、上海の騒音が睡眠の妨害をなすことに不平ばかり云っており、加藤君は唐詩選の中などの愛詩を口ずさみながら、目覚むるばかりの美人に逢えない不運をかこっており、私はただ何にも分らず老酒に酔ってばかりいて、両君に迷惑をかけはしなかったかを今では恐れるのである……とこう書いてしまえば、三人とも甚だ怪しからぬ者のようにも聞えるだろうが、これはただ愛嬌で、実は相当に働きもしたのである。
そこで、この一文を上海の渋面とする所以は、上海の各方面を大急ぎで駈け廻って、さてそれで上海の顔貌を組立ててみると、そこに一種の渋面が出来上るからである。その渋面のなかにぽつりと、印度人警官の姿が浮んでくる。黒い長髭にかこまれ、頭にターバンを巻いてる、彫像のように整ったその顔、その逞ましい直立の体躯は、他の何物よりも立派であり、蘇州河岸に立ってるパークスの銅像よりも立派である。だが、それもやはり上海渋面の一点をなすに過ぎない。この渋面をして明朗な笑顔たらしめるためには、各方面の多大な努力が必要であろう。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
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