ら、話はとぎれがちに、目前のこととは縁遠い事柄へとばかり走りました。沼で取れる魚類のこと、野菜や果物のこと、芝居や映画のこと、菓子のこと、草花のことなど……。そしてこの女主人は、あらゆることを知ってはいるが、肝腎な何かを知らず、つまりは何にも知っていないように、八重子には感ぜられました。
「お疲れでございましょうから……。」
 言われてみると、もう十時を過ぎていました。
 室を一つ距てた奥に寝床がのべてありました。八重子は長襦袢のまま、八端の柔い夜具にもぐりこみました。
 夜の静寂の音とも細雨の音とも知れないものが、耳について、なかなか眠れませんでした。
 ――いったい、ここはどういう所なのであろうか。
 枕頭の二燭光の雪洞が、へんに異境的な情緒をそそりました。八重子は幾度も、眼を開けたり閉じたりしました。東京の家のこと、兵営の梧郎のこと、夜の停車場のことなどが、すぐそこに宙に浮き出して、背景は遠くぼやけ、そのぼやけた中に彼女自身もありました。
 長い間眠られず、そしてうとうとしたと思うと、また眼がさめました。それを幾度か繰り返したようでした。
 なにかはっきりした物音がしました。人声も聞えました。八重子はへんにびっくりして、起き上りました。
 茶の間へ出て行くと、女主人はもう起きていて、身扮もととのえていました。八時になっていました。
 外は深い霧でありました。ただ仄白いものが濛々と天地を蔽うて、何の見分けもつきませんでした。
「昨晩は、お眠りになりましたかしら。」
 女主人は首を傾げて、昨夜とちがい、顔に笑みを漂わせていました。
 洗面からすべて、気を配った待遇でした。辞し去る合間もなく、食卓がととのえられて、梅干にお茶、味噌椀からワカサギに海苔と、気持よい朝食でありました。
 女主人もいっしょに食卓につきました。
「秋になりましてからの、こんな霧は珍らしゅうございますよ。」
 彼女は箸を休めて、硝子戸越しに外を見やりました。
 ふだん着の、どことなく淋しげな、彼女の姿を見ていますうち、八重子は、昨夜からまだ一言も、お互いの身の上については触れていないのを、胸に浮べました。そして、そちらへ話を向けますと、相手は、巧みに外らしてしまいました。それでも彼女がもとは芸妓だったこと、今では歌沢の師匠をしていて、僅かな弟子があるので、三日に一度は東京に出ていること、などを八重子は知りました。
 ただ、彼女はしんみりと、こんなことを言いました。
「あたくし、過去に、いろいろと、人様に御迷惑をかけたこともございます。それから、自分で、胸の晴れないこともございます。そういうことのために……いいえ、ただ退屈すぎるのでございましょうか、部隊に面会に来られました方で、お困りなさっている方を見受けますと、時たま、泊めてあげたくなりますの。」
 そして彼女は暫く口を噤みましたが、俄に、頬をちょっと赤らめました。
「ほんとに、こんなところへ御案内しまして、却って、御迷惑でございましたでしょう。許して頂けますでしょうか。」
 彼女は微笑しました。八重子は、感謝の言葉を洩らしかけて、涙ぐみました。
 なにか、垣根が取れた気持で、八重子は彼女の名前を尋ねましたが、彼女は笑って、教えませんでした。八重子は自分の小さな名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]差出しました。
 佐伯八重子……その名前と処番地とを、女主人は、ふしぎなほど注意深く眺めていました。それからまたふしぎに、前よりは一層言葉少なになりました。
 八重子はなにがしかの金を紙に包みかけましたが、さもしい気がしてやめました。そして、少女が朝早く買ってきてくれた切符の代と、少女への謝礼包みだけにとどめました。
「こんどまた、御礼に伺わせて頂きます。」
 お辞儀をしながら、なぜともなく八重子は涙ぐみました。
 女主人は門口まで見送りました。小川という表札だけを八重子は頭に留めました。少女が街道まで見送ってくれました。
 霧はまだ深く、沼も見えなければ、あたりの様子もよく分りませんでした。それでも、中空は晴れてゆき、朝日の光が乳色に流れていました。

 佐伯八重子は、沼のほとりの女を訪れるつもりで、進物などのことも内々考えていましたが、主人の亡い身にはいろいろ用事も多く、時局も激しく動いて、なかなかその意を果せませんでした。
 梧郎の部隊は果して、まもなく他方へ出動することになりました。内地か外地かも分らず、通信は途絶えてしまいました。
 やがて、東京も空襲に曝されるようになりました。戦災は次第に広い範囲に亘り、至る所に焼跡が見られました。東京に踏み留まってるだけでも、容易なことではありませんでした。
 だいぶ年下で従弟に当る深見高次が、南方で戦死したとの公報も、空襲中に到着しました。
 それからあの
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