のをただ少年にも分るようにという工夫だけのもとに書かれたもののようである。だからそれは、大人の文学――而も興味中心の低俗な大人の文学――の延長もしくは歪曲にすぎなくなる。随って少年にとっては、如何に道具立に苦心が払われていようと、つまりは人形芝居であり、如何に道徳や教訓がもりこまれていようと、つまりは模型であって、生きた血の通ってるものとはならない。
 固より、大人の立場から書かれた少年文学でしかも立派なものが、ないとは云えない。然しそれは大人にとって立派なのであって、少年にとってもそうであるかどうか疑わしい。大人にとっても少年にとっても真に立派なものがあるとすれば、それは中性的なもの、なお云い得るならば神性的なものであって、それこそ凡そ芸術の極致であろうが、茲ではそういう最高のもののことを云ってるのではない。
 一体世間では、嬰児は嬰児として大切にされるけれど、次に早くも子供の時から、そしてなお少年になるに及んで、あらゆる点で、大人的なものを如何に多く押しつけられてることか。彼等の眼が早期に大人的となり、彼等の情意が早期に大人的となり、即ち彼等が早熟することが、如何に多いか。之を称して躾がよいとか賢明だと云うのもよかろう。然しその反面には、心の底に或る窒息されたものがあろう。少くとも少年文学は彼等のうちの何物をも窒息さしてはならない。小児の魂を失わない者、大人的な種々のものを獲得しながらも子供的なあらゆるものを大きく生長さしていく者、そういう者のことを考える時、或はそういうことの出来る社会のことを考える時、云い知れぬ愉悦を覚ゆるのは私ばかりであろうか。
 なお少年文学については、一種の理想、即ち少年の精神の嚮導となりそれに方向を指示してやるようなもの、それから一種のヒロイズム、即ち少年の精神を刺戟してそれに力を与えてやるようなもの、其他いろいろのものが要求されるだろうけれど、要するに、最高の極致にあるものは別として普通には、少年のそばに身を置いて書かれるということが最も大切であって、大人の立場からいろいろのものを押しつけるのは、彼等の何物かを窒息させることであり、彼等に生きてる喜びを与えるものでは決してない。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志

前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング