ない。けれども少年にとっては、文学は身近に存在するものであり、その感銘は直接的である。だから文学は面白くなければならないと同時に、前述の通り何かしら或る重荷の重圧の下にある彼等である故、直接に力を与えてくれるものでなくてはなるまい。観念的な支持を差出してくれるものでなくて、生々しい光を放射してくれるものでなくてはなるまい。なお云えば、彼等を面白がらせると共にじかに救ってくれるものでなくてはなるまい――これが第二の条件。
この二つの条件を考えると、少年文学が如何なるものであるべきか大体の見当はつく。そして少年文学というものが非常に困難なものとなってくる。
*
実際、少年文学は非常に困難なものである。私は前に二つの条件を述べておいたが、それが、現代の時代においては、互に矛盾するもののようである。即ち、現実的であるということは、極端に云えば救われないことに通ずるものであるし、救われるということは、極端に云えば架空的な空想的なことに通ずるものである。この矛盾を克服して、而も面白いものでなければならない。面白いということは最初の条件であること勿論で、随って殊に云わなかったまでである。
この困難をつきぬけるには、ただ一つの事に頼る外はあるまい。即ち、多少きざな言葉だが――きざと聞えるほど吾々が縁遠くなってることだが――生の喜び。現実に生きてるその生きてることの喜びである。これは少年の心情にじかにふれるものであって、而も山野の神々や種々の理想と共に眠ってしまったものである。後者をよび覚すことはもう困難であるとしても、前者を蘇らすことは不可能ではあるまい。
茲に、現実的ということを再考しなければならないが、少年にとっては、現実の範囲が既に大変拡大されている。知識の普及、殊に実写映画の影響によって、現代の多くの少年にとっては、アルプスの頂上も、深海の底も、北極の氷山も、アフリカの猛獣も……それほどでなくとも、汽車、汽船、飛行機、工場、田地、すべて身近なものであって、空想郷のものではない。魚類や昆虫の生態にまでも、親しみがあろう。斯くて、地上に存在する凡てのものが彼等にとっては現実的であるならば、その中に於て生の喜びを復活させることは、文学技法によって困難ではあるまい。種子の萠芽の驚嘆すべき力のクローズアップも、文学に於て不可能ではあるまい。そして生の喜びが復活され
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