々の冷たい無関心な眼附の中を、そしてちらちら光る軒燈の中を、彼は一人歩いていた。
 とある軒先に佇んでいる真白に鉛白《おしろい》をつけた女をふと庄吉は見た。そして一度逢った金さんの妹の事を思い出した。どうやら横顔が似てる様にも思えてきた。彼は立留って、じっと其姿を見守った。
「何だよお前さんは?」と女は云った。そして暫く庄吉の姿を見廻わした。「まあ頭から濡れてるじゃないの。こっちにお入《はい》りよ、火に当らしてあげるから。」
 女は庄吉を家の方へまねいたが、その時庄吉は急に何だか恐ろしくなって駈け出した。
 それから庄吉は殆んど夢中であった。彼は高いライオンの広告塔《こうこくとう》を見た。黒く濁った掘割の水を見た。そして頭から冷たい雨に濡れて、手足の先が痲痺していた。それでも彼はなお低い方へと歩いていった。
 庄吉はぱっと明るいものに眼が眩むように覚えた。何だか黒い影が彼の心から逃げて行った。或る大きいものが彼の上で羽搏《はばた》きをした。そして彼は擾乱と熱火とのうちに巻き込まれた。それから最後に冷たいものを全身に感じた。
 彼は疾走してくる電車に触れたのであった。電車は留まる間もなく、一二間彼を救助網につっかけて走ったが、遂に車輪の下に彼を轢いた。
 もう夜遅くであった。脳味噌を露出し片腕を断ち切られた彼の身体が、無惨に地面の上に横っていた。



底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新潮」
   1916(大正5)年12月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
2008年10月20日修正
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