響に、車内の電燈の光が少し薄らいで、茫とした盲いた明るみになった途端、彼女は俄に顔を挙げて、私の方に眼を据えた。変に空虚な眼付だった。その底にあるものが、温情であるか或は敵意であるか、私は一寸見定めかねて、知らず識らず眼を外らした。そして隧道を出てしまってから、私はまた彼女の方へ眼をやった。彼女はまだ私の方を見ていた。びくともしない高飛車な眼付だった。私はその底に、みさ子の怒った時の眼の光を見て取った。軽蔑的な無関心さに包まれてる鋭い眸だった。先程から私がしきりに眺めていたことを、彼女は知ってるに違いなかった。別に他意あって眺めたわけではないけれど、それでも私は少してれてきた。窓の方を向いて、遠く闇の中に走ってゆく点々とした灯を、ぼんやり見送った。けれど頭の中には、みさ子の顔立がはっきり浮彫になされていた。
程ヶ谷を過ぎた時、私はまた彼女の方へ眼をやった。その瞬間に、彼女の眼がまた私の方へ向いて、私の視線を押し返した。私は眼を伏せた。すると、ぶ厚いフェルトの草履にのっかってる彼女の足先に、丁度私の眼は落ちた。一分のすきもなく白足袋にきっかりはまって、長そうな指先の※[#判読不可、153−上−18]った、平たく踏み広げられていない、恰好のよいちんまりした足先だった。みさ子にもこういう足先を与えてやろう、と私は思った。そしてまた我知らず、彼女の身体を見調べ初めた。井桁くずしのお召の着物が軽やかに垂れてる下に、彼女の足はすらりと伸びてるらしかった。みさ子にもそういう長い足がふさわしかった。ただ彼女の方は、どんなに想像しても跛足ではなさそうだった。然しみさ子は、一目では分らぬくらいのかすかな跛足だった。女学校の二年の時、不意の失火で家が焼けて――それ以来一家は零落しみさ子は学校を退ったのであるが……その折左足を挫いて、それが膝関節の神経痛となり、今でも時々痛むことがあった。そして向う脛の両側に、大きなお灸の跡が二つついていた。そういうお灸の跡なんかは、彼女の足にはなさそうだった。がそれは外から見えないことなので、まああるものと想像しても事は足りた。――ただいけないのは、彼女の胴体の容積だった。墨絵式の雲をぼかした中に円に鳳凰や竜の古代更紗模様を入れた羽二重の帯で、固くしめつけられてはいたけれど、鳩尾から腹部へかけて、大きな山腹を思わせるような、ぼってりとした容積で肉がついていた。がみさ子はそれほど偉大な胴体を具えてはいなかった。何処か腺病質な弱々しい体だった。その上、彼女の肩の肉附も、みさ子には少し重々しすぎた。ただ肩がすらりとこけて首筋が長いのは、みさ子そっくりだった。
その時彼女は、私の視線を感じてか、一寸ぴくりとした身振で両手を挙げて、着物の襟をつくろい、絽縮緬の羽織の前をかき合せ、両の袂を膝の上に重ねた。その指先を見て、私は眼を見張った。それは全くみさ子の指だった。蛇のようによく物に絡みつく、長いしなやかな指、膝の神経痛と関係のある、一種病的な神経質な精緻な触感を持ってる指、そして円く反った細長い爪。みさ子はピヤノと編物とに適した手を持っていたが、まだどちらも習ってはいなかった。けれども不精なためか或は習癖からか、否恐らく無意識的な感情から、洗濯を非常に嫌がっていたし、手先や爪を大変大事にしていた。そして化粧をする時の指先が極めて巧妙だった。
汽車は横浜に着いた。料理屋の女中と番頭みたいな二人連れは降りたし、実業家らしい半白の男も降りた。車内が前よりも一層広々とまた白々しくなった。彼女が私の方をじろじろと、明らさまに而も偸み見の体で眺めるので、私は窓の方にまた顔を外向けて、眼をつぶった。みさ子の立像がはっきり頭の中に出来上っていた。大理石に刻まれたように、揺ぎのない正確な形体を具えていた。私はそれに向って心で微笑みかけながら、いつしかうとうととしかけた。汽車の速力は前よりもずっと早くなった。闇の中を疾駆する明るい車室の中が、夢の世界のようにやさしく快かった。私はうっとりとした眼を半ば開きながら、彼女の方を親しげに而も無関心にうち眺めては、またその眼を閉じて、頭の中のみさ子に微笑みかけた。そんなことを何度もくり返してるうちに、本当に眠ってしまった。
ざわざわする物音にふと眼を覚すと、汽車は停っていた。もう東京駅に着いたのかと思って、半ば腰を上げた時、それは新橋駅であることを知った。と同時に、彼女からじっと見られてるのを感じた。私は一寸狼狽した気持になって、浮した腰を下しながら、てれ隠しに煙草を吸った。他の乗客はみな降りてしまって、車室には私と彼女と二人きりだった。汽車が動き出した時には、私は半ば夢の中にいるような呆けた気持だった。
彼女は真正面を向いて、もう書物もしまい、両手を膝に重ねながら、じっと身動きもしないでいた
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング