小説中の女
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)歩廊《プラットホーム》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|気圧《けお》された
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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その日私は、鎌倉の友人の家で半日遊び暮して、「明日の朝から小説を書かなければならない」ので、泊ってゆけと勧められるのを無理に辞し去って、急いで停車場へ駆けつけ、八時四十何分かの東京行きの汽車に、発車間際に飛び乗った。そして車室の、人の少い程よい場所をちらっと見定めて、帽子とステッキとを網棚の上に投り上げながら、足先の力を抜いて深々と腰を下したが、慌しく飛び込んで来た車室の明るい光と乗客達の視線とに、一寸|気圧《けお》された形になったし、もう進行しだしてる汽車の動揺と響とにいきなり心が捲き込まれた形にもなって、煙草を吸うだけの余裕もなく、両腕を組んで眼瞼を閉じた。ほーっと吐いた息の自分でもそれと感ぜられる酒の香に、だいぶ酔っていることが分った。頭の中の世界が、変に澄みきって冴えていた。友の家庭の光景や友と交えた会話などが、断片的に――而も幻灯仕掛で頭脳の内壁に投影されるように、はっきりした静止の状態で浮き出してきた。「明日から創作をするのなら……。」と諦めて、名残惜しげに門口まで見送ってきた友の心根が、しみじみと感ぜられてきた。そしてそれに励まされるような気で、私はいつしか創作の方に心を向けていった。
翌日の朝から書き初める筈のその小説は、頭の中では大体出来上っていた。けれどもただ一つ、未だにはっきりしない点が残っていた。それは小説の中に出てくる女性みさ子の面影だった。みさ子は現代的な若い女性で、理知的な顔立に一味の憂鬱を湛え、皮肉と温情とが適度に交り合い、眼尻に微笑の影が漂い、口元がきっとしまって、白い歯並が少し乱れ、すらりとした身長で、心持ち跛足でなければいけなかった。がさて、それだけのことははっきり分っていながら、それを頭の中に浮べようとすると、どうも面影が生き上ってこなかった。こうだああだと細かく線を引いてみても、全体の立像がはっきり浮び上ってこなかった。……然し、ぼんやりした靄越しに、彼女がすぐ其処に立ってることを、私ははっきり知っていた。靄がすっと消えていって、今にも彼女がまざまざと現れてくるかも知れなかった。星雲から星々の形体が凝結してくるように、ただ一面にもやもやとしたものから、次第に一つのまとまった形体が刻み上げられる、それが普通の径路である。私はそういう時を待ちながら、或る焦燥と興奮と期待とのうちに、まだ形を具えないみさ子の姿を心で見つめていた。そして隧道を過ぎたことも大船に着いたことも、殆ど気がつかなかった。
騒々しい呼売の声に、初めて私は我に返って、ぼんやり眼を見開いてみた。明々として車室の中や窓越しの歩廊《プラットホーム》の光景など、眼に映ずる世界が凡て、清冽な水にでも浸されたかのように、瑞々しく冴え返っていた。私は自分自身を取失ったような心地で、ただまじまじと眼を見張りながら、機械的に煙草を取出して火をつけた。その時誰かに言葉をかけられたとしても、私は恐らく返辞をしなかったろうし、或は突拍子もない返辞をしたであろう。
そうした空な心で、私は煙草の煙を眺めていたが、ふと、煙の彼方、私と反対の側の腰掛の斜正面の所に、視線が自ら惹きつけられた。右の耳の上で分けるともなく髪を分けて、それを額の上に高く房々となびかせ、その末を後頭部でふうわりと束ねて、黒鼈甲の大形のピンを根深にさしている、清楚な趣味の女の頭が、恐らく私と同じような無関心さで、窓の外を眺めていた。その髪形、細そりした横顔、腰をくねらしている姿勢など、全体の恰好が、私の心にぴたりときた。
「みさ子だ!」
でも私は別に驚きはしなかった。私の心はいつでも、自分の前にみさ子を見出すことを予期していた。ただ不思議なのは、鎌倉からその時まで、どうして彼女に気付かなかったのだろう? 彼女は何処で汽車に乗ってきたのだろう? 鎌倉よりも前から乗ってたのだろうか、或は鎌倉で私と一緒に乗ってきたのだろうか?……でもそんなことはどうでもよかった。彼女が果してみさ子であるかどうか、それが最も肝要なことだった。横顔でそうだと思ったのが、正面から見ると全く別人であるようなことも、よくありがちである。期待通りになるか或は期待が裏切られるか、それに対する不安の念から、私は先ず車室の中を見廻してみた。
文学通らしい三人の青年、会社員風の二人の男、料理屋の女中と番頭といった風の男女、実業家らしい半
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