。その視線が、私のすぐ側の窓から外へつきぬけてるのを、私ははっきり感じた。そして私はまじまじと彼女の顔を見つめた。みさ子が六七歳年を重ねて、其処に坐ってるのだった。「みさ子さん」と私が云ったら、彼女は眼尻のかすかな凹みに微笑の影を浮べて、「え、なあに?」と答えながら、私の方へ親しい眼を向けそうだった。そしたら私は、「随分早く年を取りましたね、」と云ってやったであろう。
それは実に変梃な気持だった。彼女の方を――みさ子の方を――見ては悪いような、また見ないで澄してるのも本意ないような、どうしていいか分らない気持だった。彼女はやはりじっと正面の窓から、夜の都会の上を眺めていた。
東京駅に着いても、私はまだぼんやり腰を下していた。が彼女はすぐに立上って、棚の上の手提と革の紐のついた日傘とを取った。私もその真似をして、帽子とステッキとを取った。彼女はちらと私の方へ視線を投げて出て行った。私は変に置きざりにされた気持で、一寸間を置いてから歩廊に出た。彼女が草履ばきのすらりとした足で、出口の方へつつーと歩いてゆくのが見えた。私はその後姿へ向って、「さようなら、みさ子さん!」と心で呼びかけておいて、電車に乗り換えるために、彼女と反対の方へ歩きだした。
私はみさ子の小説を書かなかった。書けなかったのである。書こうとすると、その面影が余りにまざまざと、丁度多年馴れ親しんでる妻とか妹とか、そういった近親の者のように、余りに身近く現れてくるのだった。小説の構想はみさ子をつき離して遠くから眺むる手法の上に立てられていたので、みさ子の面影が余り目近に迫ってくると、遠近法がうまく取れなかった。でそれを書くには、手法から従って構想までも立て直す必要があった。私はそれを他日のこととして、約束の雑誌社へは、他の短いものを書いて送った。みさ子は私にとって、一人の親しい生きた女性となっていた。
それから三四ヶ月過ぎて、或る秋晴れの日に、私は友人と連立って、郊外に住んでる懇意な女洋画家を訪れた。彼女は自分の家に、小さなアトリエと広い庭とを持っていた。私達は庭の草花を見ながら、アトリエの中で雑談を初めた。
暫くすると、女中がN夫人の来訪を知らしてきた。私達は辞し去ろうとした。それを女主人は引止めた。そして彼女の言葉によると、N夫人は彼女の旧友で、今では善良な一家の主婦だが、以前は優れた歌人だった
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