この人にとっては、酒の肴になるだけのことだ。俺がこうして、御機嫌をとってるそのことが、俺の精神にどれだけの犠牲を要求するか。俺が貰った学費が、この人の富に、どれだけの犠牲を要求したか。両者のパーセンテージは……。恩義は、与える方では、与えることの享楽で償われ、受ける方では、受けることの感謝で払われてる筈だ。……この人は俺に、学費を与えることによって、奴隷根性を押付けるつもりではなかった筈だ……。
生活の距りが大きくて、話の接穂がないだけに、杉本は、そんなことを考えるのである。田代さんに、自慢話をするだけの老いこんだ自惚か、杉本に、気焔をあげるだけの軽薄な自信か、それが少しでもあったならば、その場は救われるのであろうが、生憎……。
だが、床柱を背に、後輩の代議士や実業家に囲まれてる田代さんも、やはり、杉本を晩酌の相手にしてる時と同じように、話頭の及ばない高みにあって、にこにこしながら、うまそうに酒を飲んでるのである……。
旋風の中の、そこだけ静かな、中心点……。この人は今に何かやるな……とそう杉本も思うのである。――
杉本は顔を挙げた。田代芳輔が通りかかっていた。杉本は立上った。
「やあ……。」眼にちらと、微笑の閃めきがよぎった。「ゆっくりしていってくれ給え。」
それだけで、彼はもう次の人へ眼を向けていた。
杉本はその後姿を見送った。最初の挨拶の時は兎も角、こんどは何か……。と思っていたのが、「ゆっくり議論を闘わしてみたい、」どころか、まるで違っていた。肩の少しこけた、肉附はよいが小柄に見える、なみの老人にすぎないが……。
田代芳輔の姿が奥に引込むと、元気な一団の中から、声が起った。
「さあ、これからが吾々の世界だ。」
大きな西瓜が一つ、宙に投り上げられた。
「早いぞ、西瓜は。」
「まあ見てろよ。」
先の尖った大きな三角ナイフを取って、ずぶりと二つに割って、中身をえぐって、ウイスキーを注いだ。
「こいつ、うまいことをしてやがる。」
四方から、大匙でしゃくい取られて、西瓜の一つは見るまに皮になった。
杉本も、いつか、そういう仲間に引入れられていた。が、多くは黙って飲食するだけで……。手入の届いた頭髪、口髭、ネクタイピン、勲章、胸のポケットから覗いてるハンカチ、折目の正しいズボン、とも糸の縫紋の羽織、軍服、絽の袴……そういうものの中にあって、彼の皺の多い古い合服が、変に目立っていた――それが、彼自身の意識にもうつって……。
「西瓜で思い出したが、」と杉本の側で声がした、「震災の時、河岸縁を、西瓜を一つ抱えて、一生懸命に走って行く小僧がある……。走っても走っても、どこも火事だ。息が切れて、立止ったとたんに、思いついた。西瓜を割って、中身で喉をうるおして、その皮を頭にかぶって、大河につかった。そして生命を助かったそうだが……。これなんか、恐らく東京中で、一番賢明な奴だったろう。」
「初めは、夢中で抱え出したんだな。とかく、智恵は後から湧くって謎か。」
「後から智恵が湧くどころか、終始一貰、あの時は誰も夢中だった。君なんか、外は歩けなかった組だね。」
言葉を向けられた、背の高い、大陸的な風采の男は、昂然と笑った。
「ばかな、大手を振って出歩いたさ。そして警戒線にぶつかると、アイウエオやいろははおろか、逆に、すせもひゑしみめゆきさあてえ……。どうだ、云えるか。」
「す……せ……も……。ははは、ばかだなあ。」
「あの時だけは、有吉、君たちの軍服も、感謝の光栄に浴したわけだね。」
「なあに、ただ、辻々に立って……街路樹みたいなものさ。」
有吉は事もなく云って、微笑していた。
「街路樹よりも、もっと本物らしいのがあった……。」
先程から、有吉の軍服と旭日章とをぼんやり眺めていた杉本が、ふいに口を開いたのである。皆の視線がその方を向いた。
――九月三日の夜……といえば、戒厳令が布かれた直後のことである。流言浮説は深刻の頂上に達していた。自戒団や避難民で街路は湧き立っている。……が、その間に、まだ電燈のともらない裏通りなどに、変に薄暗い、人気の少い穴みたいなところがある。そんなところが最も危険だ。特に、広い墓地を控えた寺の入口など……。その或る寺の入口に、石の仏像が一つあった。すると、三日の夜、誰かが、気転を利かして、在郷軍人の、軍服の上衣と帽子を、その石の像にかぶせた。そして、軍服をきた石の像が、四日をすぎて、五日の朝まで、そのままつっ立っていた……。畑の中の案山子なんかより、もっと有効に……。
「ばかな!」
有吉が一喝した。
その時になって、話のおかしな感銘を一同は感じたらしかった。それが、杉本の口を噤ました。
「愚弄するのか……。」
「…………」
杉本は腑に落ちない顔付で、ぼんやり立上った。その腕を、有吉は掴んだ。
「案山子とは何だ、案山子とは……。」
「然し、街路樹よりも……。」
杉本は突き飛されたのを感じた。それをふみこたえた瞬間、顔の前に、大きな挙《こぶし》が突出された。
「こい!」
酔っていた。何のことかよく分らなかった……誰にも。好奇の色を帯びた真剣な眼が、幾つも光った。
大きな拳が、有吉の鼻の頭をこすって、ぬっと、も一度前に出た――極度の侮蔑で卓子の上に、尖った三角ナイフが光っていた。それを掴んで、杉本の顔に皮肉な笑いが上って、どうだ……といった調子で、つきつけたのが、手首をぐっと引かれた。はずみをくって、よろけながら、握りしめた手先の力が籠って、全身の重みがかかった……。
杉本は、前のめりに、ぱったりと倒れた。
瞬間の出来事だった。
次の瞬間、杉本は飛び起きて、顔色を変えて、震える手にナイフを握りしめていた。その腕が、人の手に押えられた。眼の前に有吉はつっ立って、頬に微笑の影を湛えていた。が、その右の大腿部の、軍服が裂けて、血が……。
「ば、ばかなことを! 気をつけろ!」
そして彼は、一歩よろめいて、卓子につかまった。顔をしかめた。眼を落して、腿の血を見た。
「出て行け!」
杉本は、歯をくいしばって、憎悪に燃ゆる眼を、相手の眼に据えた。が有吉の眼は、自若としてそれを迎えた。蔑すんだ色が動いた。
「帰してやれ。」
命令的な、逆う余地のない語気だった。杉本の腕を捉えてる手は放された。杉本は、ナイフを取落し、首垂れて、歩み去った。
その時、人々に取囲まれながら、有吉は、急に腿の傷口を押えて、椅子に倒れた……。
六
静かな、そよとの風もない、星の光の強い深夜だった。
杉本は古い洋服のまま、半身を机にもたせて、坐っていた。その額に、今まで見られなかった皺を刻んで……。口のあたりの頬が、かすかに震えていた。
「別れるのは、嫌だというのか。」
「…………」
無言で、英子は唇をかんでいた。頬の贅肉がいつもよりふくらみ、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]がいつもより尖って、自然の媚と我執との、ちぐはぐな顔付だった。
「僕たちは、互に、奴隷にはならなかった。それが、僕たちの夢の取柄だ。」
「夢……。」
「……じゃあない、といって、生活でも……。」
皮肉な色が、さっと彼女の眼に浮んだ。
「では、何……何なの?」
「何か……僕にも分らない。今になってみると、間違ってたようだ。」
「あなたは、後悔してるの?」
「いや、そんなことじゃない。君は、あの男に対する嫉妬心だけで、あんな狂気じみたことをしてしまった。嫉妬心の腹癒せ……そんな、ちっぽけな、個人的な心がいけなかったんだ。もっと怒るんだ、もっと、本当に、腹の底から、怒るとよかったんだ。」
「怒ったからこそ、……分らないのよ、あなたには。」
「それが、実は本当に怒っていなかったのだ。僕にはそれが分る。今も云ったように、僕は今夜、有吉に対して、初めは冗談のつもりだった。ところが、その後では、本当に憎んだ。もし腕を押えられなかったら、即座に刺し[#「刺し」は底本では「剌し」]殺していたろう。……向うはそうじゃなかった。初めはわりに真剣で、後ではもう僕を憎んではいないようだった。それが、有吉との本質的な違いだ。今になって分ったのだ。そして僕は、ああいう人物に対して、ああいう存在に対して、腹が立った。本当に怒った……。」
「だから、あたしとも別れようというの。」
「本当に怒って、それから、分ってきたのだ。僕は一人だった、一人ぽっちだった。向うは、大勢……ああいう階級全部を背負っていた。……君だって、嫉妬心にかられた時は、一人ぽっちだった。だが、向うは、あの男は、ああいう人間共……ああいう生活、それ全体を背負っている……。」
「…………」
彼女は無言で、彼の顔を見つめた。その眼から……下眼瞼の円く開いてる縁から、しみ出すように、涙が……。それがこぼれかけた時、急に、彼の頭に縋りついた。
「いや、いやよ、別れるのは。」
「淋しいのか、一人ぽっちなのが……。」
彼女はなお強く、彼の肩を抱いた。
「それを、一人ぽっちでなくなすんだ。」
「では、別れない?」
彼は彼女の手を静かに離して、その額に接吻してやった。白粉のついた冷い額を、差出して、彼女は眼をつぶっている……。
「分るだろう……こんなことをしていては、いつまでたっても一人ぽっちだ。二人できつく抱き合ったところで、やはり、一人ぽっちの淋しい気持は、無くなりはしない。」
彼女は強く頭を振った。
「それが、男と女との違いだ。」
云ったあとで、彼の眼の底は、熱くうるんだ。
「僕は、いつか云ったことを、いさぎよく取消そう。女は、子供を産まなければいけない。子供だ。男は……。僕は、久しぶりに、母のことを思い出した。僕がまだ小さい時に死んだ母だ……。」
開いたままの窓から、冷い夜気が流れこんできた。彼は立上って、窓のところへ行って、空を眺めた……。
いつのまにか、その後ろに、彼女も立っていた。
「どうするの、これから……。」
「沢山仕事がある。先は遠い。ゆっくり、あせらずに歩くんだ。君と別れて、僕は却って、君と強く結びつくような気がしそうだ。」
「…………」
見返すと、彼女の若々しい髪が、肉体が、電気の光を滑らして、息づいていた。それ全体が、一の抗弁のよう……。
彼はいきなり彼女を捉えて、胸に抱きしめた。
「許してくれ、それより外に、仕様がないんだ。」
「自由になりたいのね。」
「…………」
「いいわ。あたしも……自由に……。大丈夫よ。自暴《やけ》は起さないから。」
「誓う?」
「…………」
彼女はただ笑った。彼も憂欝な微笑を浮べた。
隣りの部室には、昼間の労働に疲れた、若いトルストイアンの小林が、深い寝息を立てていた。
七
有吉祐太郎の大腿部の傷は、快癒までに二週間を要した。彼はその間に、休職を願った。そして一年ばかり過ぎて、免官の許可を得た。蔭で、田代芳輔の口添があったのは勿論である。
有吉は軍服をすてて、背広にかえた。頭髪を伸して、代りに、口髭を短く刈りこんだ。
その頃、杉本はもう上海に行っていた……。その断片的な消息を、有吉は警視庁の内部から得た。
「彼奴《あいつ》……。」
そう独語しながら、有吉は、やはり憎悪の念を持ち得ないのである。――
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
1929(昭和4)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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