やはり、女給なんかに出てるのを、あなたは嫌なんでしょう。あたしも嫌。……だと云って、どうすればいいの、働くことがいいんだ! 何をして働いたらいいの……。そんなこと、頭がくしゃくしゃしちゃったわ。自分で考えるわけじゃないけれど、いろんなことが、変に……。」
どこか甘えたような、笑いをさえ含んだ調子で、彼女は口を利いていた。頭と心とがちぐはぐになってるような様子だった。その顔を、彼は見守りながら、底にあるものを探りあてようとした。
「何か、何かあったのか。」
「…………」
暫く、眼を見合って、ふいに、彼女は快活に叫んだ。
「あれがいけないんだわ。」
「何?」
「軍人……将校よ、立派な。襟に赤と、肩に金線の、軍服をきて、サーベルの音をさして……。あたし、帽子をぬいで、丁寧にお辞儀をされて……びっくりしちゃった。」
「誰だい。」
「……アリヨシ……。」
「え、有吉……有吉が来たのか。」
「知っていらっしゃるの。アリヨシと、そう云えば分るって……。そしてまた、丁寧にお辞儀をして……。あの人、なあに?」
「少佐になったばかりの、なかなかやりてだ。何か云っていったのか。」
「何にも。ただ、また来ると……。」
「うむ……。」
「どうした人なの。」
「そら、僕が大変世話になった田代さん、その親戚なんだ。」
「あら、田代さんの……。あたしが逢って、悪かったかしら……。」
「ばかなことを……。」
「あなたと、懇意なの。」
「うむ……一寸した知り合いで……。」
それ以上、彼は有吉のことを云わないで、口を噤んでしまった。眼鏡の奥に眼の光を沈めて、心を遠くに走せて……。
二人の生活では、饒舌と沈黙とが急に移り変った。それが、いつしか習慣のようになっている。
窓硝子越しに、戸外はほのかに暮れていた。電燈の光が増した。英子は、有吉のことが気にかかりながらも、それを聞くには時機を待つがよいことを、本能的に感じて、と同時に、何だか薄ら淋しく、食事のことを思い出した。
粗末な餉台の上で、じゃが薯《いも》の煮たのと、鮭の焼いたのと……。
「御馳走はないのよ。」
「断るまでもないさ。だが、こんなのは、滋養分が多い……。」
「カロリーに富んでる……。」
「また、台詞か……。」
二人は笑った。が言葉少なに……。
食後、英子が俗謡を口ずさみながら、元気よく後片附けをやってる時、扉を開いて、小林の、日焼けのした、にこにこした顔が、そっと覗いた。
「お邪魔じゃありませんか。」
「やあ、はいれよ。」
杉本の眼は、いつもより、急にやさしく輝きだして、小林を迎えた。
隣室に、二人の大学生と一緒に住んでる、年の若い自由労働者だった。一日働いて疲れきっても、仕事にあぶれて時間をもてあましても、平気でいた。金はないか、と大学生から云われると、持ってるだけのものをすぐ出してやった。大学生が外をぶらついて、自分は仕事がなくて、困りきっても、平気で水ばかり飲んでいた。余り腹がすくと、飯を一杯食わしてくれと、杉本のところへやって来て、二三度分を一度に平らげて、けろりとして、親方のところへ、仕事を貰いに出かけていった。勉強しなくちゃ駄目だ……というので、杉本の書物を借りていった。日々の簡単な手記を、杉本に添削して貰った。
その一種の日記……二枚の紙を、小林は杉本の方へ差出した。
「これ、今日んです。」
「ほう、早いね。」
「今日は、つまらない仕事なんで……。」
だが顔付では、別につまらなくもなかったような……その様子を、杉本は、頭から足先まで一度に抱き取る眼付で、じっと見ながら、前日の、赤字で一杯になってる原稿を、返してやった。小林はそれを丁寧に読み分けて、腑に落ちないところは質問した。それを少し写し出してみれば――。
――鉄筋の運搬だ。五メートル物の束を、前方に一人、後方に一人、二人でかつぐのだ。この仕事、力の不公平は、随って労力の不公平は、寸分も許されない。同じ重量が、二人の肩にかかっている。だが、一種の義侠心と名誉心とから、強い方が前方を受持つ。前方には、重量を支える以外に、注意が必要だ。鉄筋の頭を、物にぶっつければ、その反動で、肩にずっしり喰いこんでるやつが、着物越しに、肩当越しに、肉を破る。而も、ぶっつかる危険物は、足場の粗雑な組立のために、随分多い。こういう狭いところを、人間の肩で運ばせるのが、間違ってるんだ。だが、狭いから、機械や馬車で運べないから、人間がやるんだ。重い鉄棒に向って、俺の力で、という気持から、誰も皆、責任感が強い。重量の下に、死んでも、膝を屈げる者や、肩から投げ出す者は、いない。ただ、不注意だけだ。うかと、物にぶっつけて、その反動で肩の肉を破る者は、時々ある。人間には、機械的な注意は……。
そんな風に、まだ続くのを、小林は読み終って、首肯いて、出て行こうとした。
「まあいいじゃないか。」
「隙なんですか。」
「うむ……。あの、例の先生たちは?」
「いませんよ。」
「また、君から金をまき上げて、酒を飲みに行ったんだろう。」
「…………」
小林は黙って、薄ら笑いをしていた。
「まだ君は、ああいう連中と別れられないのか。」
杉本の鋭い視線を、小林は意外に感じたらしく、暫くその眼付を窺ってから、云った。
「別れられるとか、別れられないとか、そういうんじゃありませんよ。同県人で、ああして一緒にいる……。だから、一緒にいるだけです。金のことなんか、向うにない時、僕にあることが多いんで、それで、持っていくんでしょう。あの連中は、酒が飲みたいんです。僕は飲みたくない。だから……。それに、これは僕の修養です。隣人愛というものが、どこまで持ちこたえられるものか、神というものが、窮極まで信じられるものか、どうか、そんなことが、やはり問題になっているから……。」
「そんな個人主義は、駄目だ。」
杉本は叫ぶように云って、相手を遮った。そして、小林がまだぬけきらないでいる、トルストイ主義のことに、話を進めていった。――トルストイの豪いのは、隣人愛でも、無抵抗主義でもない。彼の偉大な個性だ。
その個性は、結局、個人主義の行きづまりである。彼は個人として、凡てのものにぶつかっていった。信仰が人を生かすものかどうか、神が正しいものかどうか、そんなことに、個人的批判を下そうとした。人間は如何にあるべきものか。そういう問題を、個人的に解決しようとした。それは、云わば、自然そのものに対する巨人の争闘だ。その争闘に、あくまで突進したところが、彼の偉大な点だ。然し、そんな方法では、愛も、神も、見出せるものではない。益々影が薄らぐばかりだ……。
杉本はいつになく熱心に、自説を主張し続けた。それに、小林は注意深く耳を傾けていた。奇矯にわたる説に出逢っても、驚きもせず、腹も立てず、神妙に聴いているのである。
そしてこの、短く刈りこみ、日焼けの額に老けた筋が通り、善良な眼付と口付……骨格は頑丈だが、栄養が不良らしい肉附の、若いトルストイヤンと、茫漠たる風采の杉本との対話……その傍で、それには一言も口を出さず、強いて理解しようともしないで、英子は、しきりにリリアンを編んでいた。
赤や黄や紫や白や桃色の、艶やかな絹糸が、サファイアの指輪をはめたしなやかな白い指先に、やさしく戯れて、編台の上に、留針に刺されながら、単調だが微笑ましい模様を、形づくってゆく……。
それにも倦きると、彼女は、リリアンの長い一筋を取って、その切口の、細かな絹糸が無数に乱れてる中の、一つを探りあて、すーと引張る。組糸がほぐれて、長く伸びて……。屈托が晴れてゆくような感じだ。ほぐれた絹糸は、綯りの力で、縮れてぼけて、ふうわりと、綿のように……。それを彼女は、掌で柔かく円める……。新鮮な色彩の入り乱れた、宙に浮きそうな絹糸の球が、次第に大きくなってゆく……。その子供らしい、何か底に熱をもった、無邪気な遊びに、英子は眼を光らしていた。
杉本と小林との対話は、落付いた足取りで進んでゆく……。
四
有吉が杉本を訪れてきたのは、晩、英子がカフェーに出て不在の時だった。
杉本は物を書いていた。そういう時の癖で、書き損じの原稿紙を、机の左右に散らかしていた。それを無雑作に、室の片隅に払いやって、彼は有吉を迎えた。
有吉は和服の着流しであったが、当時まだ現役で、短く刈った頭髪と長い口髭、外気に曝された皮膚、軍帽に練えられた額の肉附、じかに露骨に対象へ向けらるる大きな眼玉……などを以てして、明かに軍事的なものを一身に帯びていた。そして主客顔を見合した瞬間、その軍事的なものが、互の頭にはっきりと映った。――杉本は学校を卒業した時、在学中の徴兵検査で第一乙種合格のため、兵役についての境界線に立っていたので、何等かの便宜を望んで、有吉の助力を求めに行った。すると意外にも、国民皆兵主義の理論にぶつかった。其後彼は徴集を免除されはしたが、そのため、つまらないことをしたものだと思ったのである。――有吉は其後杉本に逢うと、彼に後ればせの好意を示すためか、或は世界的思潮に共鳴してか、国費全体と軍備費との数字的比率を持出し、軍備制限の必要を説き、最小限度の軍備に就ての自説を主張した。すると意外にも、極端な軍国主義か全然の軍備撤廃か、初期マホメット教国かイワンの国か、どちらかを選択すべきだという意見にぶつかった。そして、つまらないことを云い出したものだと思ったのである。
「君とは随分、議論を闘わしたが、其後……。」言葉を切って有吉は室の中を見廻した。「相変らず勉強のようですね。……僕も、この頃、軍事の中だけに籠らないで、一歩ふみ出したいと思ってるから、君に教えを乞わなくちゃならんことも、いろいろ出てきそうで……。」
変な挨拶である。その裏の気持を読み取ろうとして、杉本は、相手の顔色に眼をつけた。有吉は眼を外らして、書棚に並んでる、和洋雑多な書籍を物色し初めた。
バラックとも云ってよいほどの、粗末なアパートの、和洋折衷の室である。四角な区劃、それが、入口の控室で切取れ、押入で切取られ、下が三尺の戸棚になってる床あきで凹み、奥の室に通ずる襖、硝子戸の六尺の窓……。片隅に机を据えて、その横で……。主客とも、何だかその処を得ないような様子である。杉本は、不器用な手附で、茶と菓子とをすすめ、有吉は、書棚の方へにじり寄っていた。
「ほう、随分多方面なものが……。クロポトキン……明快な論理だそうですね。」
「少し集めていますが、隙が出来たら読んでみるつもりです。」
「アナトール・フランス……面白いですか。」
「それも、まだ読んでいないんです。」
「マジー……と、魔法ですか。これは愉快でしょう。」
「それも、実はまだ……。」
「…………」
ちぐはぐな問答が続く……。
有吉は坐り直して、渋茶をすすった。
「君は、自由に研究が出来て、羨しいですね。僕なんか、隙がないものだから……。それで、ロシア通の話を聞けば、労農政府に同感してくるし、イタリア通の話を聞けば、黒シャツに同感してくるし、去就に迷う始末なんで……は、は、はっ……。」
突然笑い出した。が、案外真剣で……。
「君はどう考えるですか。」
「え?……。」
そして二人の間に、全く観念的な会話が展開していった。要約すれば――
杉本は云うのである。――ファシズムには、それ自身二つの矛盾を含んでいる。ファシズムは元来、ブールジョアジーの攻勢的武器であって、その対敵目標は、ブールジョアジー以外の凡てにある筈だ。それが、発展の道程に於て、広く大衆に――小ブールジョアジーのみならず、小農民階級やプロレタリアートの或る層にまで、立脚しようとする。そこに機構的矛盾がある。また、ファシズムは、それ自身の独裁を目的とする。随って、議会政治の無用――立法権に対する執行権の優越を、肯定するものである。然るに、それを議会政治の基礎の上に獲得しようとする。そこに手段的矛盾がある……。
有吉は心持ち眉をひそめていた。が敢て抗弁はしなかった。杉本はその肉の厚い顔付に、かすかな笑いを漂わしてい
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