なかった。
このことで、長谷川は更に苛ら立ちを覚えて、琴の音から気を外らそうとした。室の中を飛び廻ってる蝿に、注意を集めてみた。その羽音がどこかに消えると、琴の音も遠くかすかになり、やがて、足音もなく千代乃が立ち現れて、にっこりと眼付きで笑みかけ、指先を痛いほどきゅっと握りしめる……自惚れきった妄想だ。
彼はいつも、ひとり放り出されていたに過ぎない。
だが、この間に長谷川は、爺やの辰さんから、いろいろなことを聞き出した。辰さんはこちらに用がふえて来てることが多く、合間には畑の野菜物、遅蒔きの茄子や大根の手入れをしていた。その仕事を長谷川が通りがかりに佇んで眺めていると、辰さんの方からしばしば話しかけてきた。つまらない世間話ばかりだったが、その中には千代乃のことも出て来た。
千代乃と兄の松木恵一との姓が異ってるのは、千代乃は母方の三浦姓をついでるからだとのこと。また、柿沼治郎には本妻があって、もう長年、肺の病気のため、どこかの療養所にはいってる由。その本妻の没後には、柿沼は千代乃と正式に結婚する約束になってる由。
辰さんはずけずけと口を利いた。
「松月館も、先代までは盛んなもん
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