ど……。」
「なぜ、ひとを騙して、お線香なんかあげさしたんですか。」
「別に騙したわけじゃなく、初めからそう言ったんでしょう。」
「銀行預金だの、家屋だの、出資だの、そんなことを、どうして言う必要がありますか。」
「それも、万事はっきりさしておきたいためでしょうよ。」
「古いコートのことなんか、どうでもいいではありませんか。」
「きれいさっぱりという、そのつもりなんでしょうよ。」
「いいえ、そんなことでなく、そのぜんたいのこと、ぜんたいの仕打ちです。」
「ちょっと待って下さい。僕を攻撃なすったって……。僕がしたんじゃありませんよ。」
「あなたには分らないんだわ。そんなら、今日のこと、なぜわたしが東京をいやがったか、すこしも察して下さらないのね。」
長谷川には全くそれは分らなかった。彼は黙っていた。
「わたし、ただ、柿沼から逃げ出してしまいたかったんです。」
「しかし、きっぱりと極りがついたんでしょう。逃げ出すなんて……。」
「いいえ、わたしはすっかり穢れているんです。柿沼の女中だったんです。拭ってもなかなか綺麗になりません。古コートを道に叩きつけて、自分も石に頭をぶっつけて死のうかと思いました。」
酒を飲みながらも、彼女の頬からは血の気が引いてゆくようだった。そして眼が底光りしていた。
長谷川にもようやく、彼女の気持ちが分りかけてきた。分りかけることは、同時に、柿沼という人物に対する反感が高まることだった。
「よろしい。僕にもすこし分りかけたようです。」長谷川は静かに言った。「柿沼さんは、しかし、別なことを言いましたよ。女というものは、家庭にあっては単に長火鉢でよいし、家庭の外にあっては単に湯たんぽでいいが、あなたは、千代乃さんは、長火鉢にも湯たんぽにもなれない人柄だと、そう言いました。」
「まあ、穢らわしい。」
「あのひととしては悪口のつもりかも知れないが、実は却って、あなたを褒めたことになるじゃありませんか。」
「いいえ、長火鉢だの、湯たんぽだの、なんてことでしょう。電燈とか、ランプとか、なぜ言わないんでしょう。」
「だから、あなたは、長火鉢にも湯たんぽにもなれないと……。」
「いいえ、わたしは柿沼の湯たんぽだったでしょうよ。そして昨日も、湯たんぽ扱いされました。」
それは、理屈ではなく、実感なのだろうと、長谷川は覚った。どうにもならないことだった。
「
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