って……あなたも、見たんですか。」
「いいえ、聞いただけですけれど……。」
 少し現実すぎる話だ。そんなことより、むしろ怪談の方が他愛なくてよかった。
 酒を飲みながら、長谷川は怪談をもち出した。ひとから聞いたり、書物で読んだりした、さまざまな幽霊や妖怪変化の話。
 長谷川はもとより、千代乃も、幽霊やお化を信じなかった。然し二人とも、笑いはしなかった。怪談の特質として、たとえそのようなことは信じなくとも、なにか他界の気配に耳を傾けるような、異様な気分になっていった。
 すると千代乃は、長谷川の怪談に対抗して、超自然的な異変を持ち出してきた。幽霊やお化は全くの作りごとだが、他にいろいろ不思議なことが実際にあると言う。
 親しい友とか身内の者とかが、遠く離れていて死ぬ場合、その人の姿がぼんやりと、枕元に立ち現われる、などという話は嘘だけれど、家の棟に大きな音がしたり、柱が軋り鳴ったりすることは、実際にある。――一家の主人の運命が大きく変転する場合には、その庭の木が、時ならぬ花を咲かせたり、俄に立ち枯れたりすることが、往々ある。――人間の運命と自然現象とは、たいてい気息を通じ合っている。――キリストは、その信仰によって奇蹟を行ったのではなく、逆に、奇蹟に出逢ったことによって、キリストの信仰が大きく展開したのである。
 そういう話になると、彼女の肉附きの薄い頬は、酒の酔いもすーっと引くかのように、蒼ざめかげんに緊張し、眼はじっと見据ってくる。
 議論の余地はなく、ただ、信ずるか信じないかだけだ。
 長谷川は魅入られたような心地になって、酒を飲んだ。
 雨はまだしとしと降っていた。
「こんなこと、誰にも話したことありませんの。内緒にしといて下さいね。」
 長谷川は彼女の眼を見返した。人間の運命と自然現象との関係のことなら、単なる意見にすぎず、内緒もなにもあったものではない。
「内緒って、そんなこと、まだ何もお話しになりませんよ。」
「そうね、お話ししてもいいけれど……。」
 なにか考えこんで、それからふいに、くたりと姿勢をくずした。
「お酒、まだたくさん残っておりますわ。飲みましょう。」
 打ち明け話などなにもなく、もう彼女の眼は、睫毛をちらちらさして微笑していた。それだけが室内に宙に浮いて、屋外の闇の深さが感ぜられる夜だった。
 風もないらしいのに[#「 風もないらしいのに
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