ろう。愛情もなく、生き甲斐もないのである。彼女は反撥し、反抗した。嘗て彼女も、恋愛を経験したことがあり、相手の男は戦争中に陣没したが、忘れかけていたその青春が、また芽を出した。長谷川が、どこやらその男に似ていたのだ。身を以てする復讐、そして身を以てする復活。彼女は長谷川を虜にした……。
 そこまでは、甚だ平凡であり、通俗小説の筋書きに等しかった。
 然し、彼女の心理には、特殊なものがひそんでいた。超自然的な奇蹟、人間の運命、その両者の関連など、普通の理知からはみ出した信念があった。深夜に琴がひとりでに鳴り響いたのも、彼女にとっては一種の啓示であり、あの日の大雷雨も、彼女にとっては一種の啓示であった。そして長谷川との肉体の交渉は、到達点ではなく、出発点に過ぎなかった。出発して、そして何処に到るかは、ただ神のみぞ知る。
 千代乃は、頬の皮膚を薄紙のように張りきり、眼に深い光りを漲らして、長谷川を見つめた。
「覚悟していらっしゃい。わたし、もう一生あなたを離さないし、あなたから離れないから。」
 長谷川もいつしか、覚悟をきめていた。
 遁れられない運命だと、なんとなく彼女の説にかぶれかかっているのである。
「僕だって、もう覚悟はしている。その代り、あなたも、あの言葉は取り消しますね。あまり深く想っちゃいけないということ……。」
「あの時はそうだったの。でも、今は違います。」
「では、条件なしですね。」
「ええ、無条件。」
 無条件の……降伏か、勝利か……そんなことが、ちらと長谷川の頭に浮んだが、彼はすぐ眉をしかめた。まるで違ったものだ。そして無条件ということは、ひどく自由であると共に、ぬきさしならぬ感じだった。
「無条件に……。」彼女は言葉を探す風だった。「生きていきましょう。」
 長谷川は頷いた。
「わたし、東京には、三田に伯母さんがあるから、柿沼のところには行かないで、そちらに泊ることにしているの。あなたのこと、その伯母さんに打ち明けて構いませんか。」
「構いません。」
「分ったわ。大丈夫、打ち明けなんかしません。でも、遊びにいらしてね。いい伯母さんよ。」
「それでも、なんだか……。」
「いやよ。毎日来て下さらなくちゃ、いや……。」
 駄々をこねるように、彼女は長谷川の肩に頭をもたせかけて、身体ごと揺った。酔ってるのか、甘えてるのか、恐らくは彼女自身にも分らなかったろ
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