さあ、どうぞ。」
招ぜられるまま、長谷川はやって行き、煙草を一本取り上げた。
「毎日、御勉強のようですね。」
「いや、つまらん仕事です。」
「御挨拶もしませんでしたが、少し、お邪魔だったでしょう。今日、午後、たちます。あとはまた静かですから、ゆっくり御逗留なすって下さい。」
事務的に響く淡々とした調子だった。
その時、長谷川は、後々まで残る深い印象を受けた。――山鳩の死体をぶらさげてた自分の滑稽な恰好。遠くから視線を交わしたことはあるが、初めて近々と出会ったのにしてはおかしな対話。それらのことをも忘れるほどの印象なのだった。
柿沼は背がやや低い方で、頸は短く、肉付きは逞しく緊っており、五分刈りの頭は大きく見え、顔は浅黒く、鼻の太い丸顔……まあ普通に見かける事業家のタイプだった。ただ、その眼差しに、なにか陰にこもった影があった。直接に相手を見ないで、紙一重ごしに覗ってるというところがあった。松月館主人の眼差し、相手の意向に迎合しながら別なことを考えてるような眼差しとは、全く別種なもので、初めから相手の意向などは無視し、しかも自分自身をも影の中に潜み隠してるのである。言葉の冷淡な無関心な調子も、それに由るのであろうか。更に、その眼差しに宿ってる一種の影は、憂暗な色合を帯びていて、額の上まで拡がっている、というよりは寧ろ、額全体に憂暗なものが漂っていて、それが眼差しにまで影を落しているのだ。
そういう印象に、長谷川はなにか心暗くなり、柿沼の顔から眼を外らした。
「お邪魔しました。」
言い捨てて、歩きだし、それから、手の煙草も投げ捨てた。
烙印、額に烙印、というものがあるとすれば、柿沼の憂暗の影はそれではなかろうか。
長谷川は掌で、自分の額をしきりにこすった。
今まで忘れていたというのではないが、なんとなく避けていたことに、彼は思い当った。
もう、千代乃に対する本心を、はっきりさせなければならないのだ。たかが柿沼の第二号と……そんなふざけたことではない。一個の三浦千代乃とのことだ。
一人になって考えてみよう、と彼は思った。柿沼がたってしまえば、もう、どこへ行こうと、誰かに、或るいは自分の気持ちに、ここから逃げ出したと後ろ指をさされることもないのだ。
朗かとまではゆかず、悲壮めいた気持ちで、長谷川は林の中を歩き、渓流のほとりをさまよい、水車のそばに佇ん
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