だ近いものだった。しかもいま、彼は彼女の相手になり得る地位にいないのだ。
 長谷川は突然立ち上って、外に出で、町や野道を歩き、ビールを飲み、煙草をふかし、それでも自分自身をもて余して、帰って来、また室の中に寝そべった。
 階下からは、琴の音が響いてきた。千代乃が弾いているのだ。不思議なことに、彼女はこれまで琴に手を触れようとしなかったが、柿沼が来てからは、ひまさえあれば琴を弾くようになった。コロリンシャン、コロリンシャン……やたらにひっかき廻している。それも柿沼へのサーヴィスなのであろうか。いや、なにか違う。
 長谷川が寝ころんで聞いていると、琴の音はいつまでも絶えそうになかった。彼は琴曲のことには不案内だったが、歌物ではないらしく、ただ手の技を主とする緩急高低の音色の連続だ。変化はあっても似たり寄ったりで、人の精神へではなく情緒へだけ絡みついてくる。何を訴えようとしているのであろうか。
 長谷川は、また、謎を投げつけられたような気持ちになるのだった。琴の前に坐ってる千代乃の姿は、想像しただけでも、あの洗い髪の彼女と、あの理知的な彼女と、両方に引っ張りだこになって、しっくりした落着きがなかった。
 このことで、長谷川は更に苛ら立ちを覚えて、琴の音から気を外らそうとした。室の中を飛び廻ってる蝿に、注意を集めてみた。その羽音がどこかに消えると、琴の音も遠くかすかになり、やがて、足音もなく千代乃が立ち現れて、にっこりと眼付きで笑みかけ、指先を痛いほどきゅっと握りしめる……自惚れきった妄想だ。
 彼はいつも、ひとり放り出されていたに過ぎない。
 だが、この間に長谷川は、爺やの辰さんから、いろいろなことを聞き出した。辰さんはこちらに用がふえて来てることが多く、合間には畑の野菜物、遅蒔きの茄子や大根の手入れをしていた。その仕事を長谷川が通りがかりに佇んで眺めていると、辰さんの方からしばしば話しかけてきた。つまらない世間話ばかりだったが、その中には千代乃のことも出て来た。
 千代乃と兄の松木恵一との姓が異ってるのは、千代乃は母方の三浦姓をついでるからだとのこと。また、柿沼治郎には本妻があって、もう長年、肺の病気のため、どこかの療養所にはいってる由。その本妻の没後には、柿沼は千代乃と正式に結婚する約束になってる由。
 辰さんはずけずけと口を利いた。
「松月館も、先代までは盛んなもん
前へ 次へ
全49ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング