線、或るいは踏み越えてはならない一線が、暗黙のうちに劃されてるかのようだった。
 その一線は何であろうか。
 今に明るみに曝してやる、と長谷川は考えた。それは愛の親和ではなく、男性と女性との闘争に似ていた。
 霧の中の千代乃の姿は、透し絵のように捉え難い点で、彼の頭の中にある千代乃の象徴とも見えた。
 長谷川はじっと眺めやった。
 千代乃の姿は、やがて、ゆらりと動いて、こちらへ歩いて来た。すぐそばへ、橋の欄干にもたれて、並んだ。
「ひどい霧、こんなよ。」
 肩の黒髪をぱらりと背後へさばき、右腕のあたりの浴衣に左の掌をあてて見せた。霧にしめってるのであろう。それから、右手の風呂敷包みを、帯のところまで上げて見せた。
「いい物を持って来たわ。何だかあててごらんなさい。」
 長谷川は黙っていた。
「こんなとこで、なにしていらしたの。帰りましょうよ。」
「お酒、ありますか。」
「あら、昼間からあがるの。」
「こんな霧だから。」
「じゃあ、霧のはれるまで。」
「そう、霧のはれるまで。」
 歩くのにも、足元があぶなかった。
 家の中にはいると、着物がしめっぽくしっとりしてるのが、はっきり分った。
 千代乃が持って来たのは、大した物ではなく、鮑五つに栄螺七つ。ただ、取りたてのように生きがよく、形も大きく揃っていた。
 それよりも、長谷川の心を打ったのは、彼女が懐から取り出してくれた手紙だった。石山耕平から松月館へ来たのである。
 いい加減に書き流した普通の手紙で、居心地はどうか、仕事は出来るか、と尋ねていた。――宿泊料が安いかわりに、建物は粗雑だから、客が込んでると、騒々しいかも知れない。あまりうるさいようだったら、別館というのがあるから、そちらへ移ったらどうか。これは静かで、松月館主人の妹がいるはず。少し変り者らしいが、仕事の邪魔にはなるまい。隙があったら、近々、自分もちょっと行くかも知れない……。
 そのなんでもない手紙が、改めて、長谷川の現状をまざまざと見せつけてくれた。もう別館というのへ移ってしまっているのだ。仕事のことはまあよいとして、千代乃にはまりこんでしまっているのだ。
 あの夜以来の習慣となったのだが、酒は火鉢の銅壺で燗をする、その酒を長谷川は飲みながら、水貝をすくい、壺焼をつっついた。
「鮑も栄螺も、とびきり生きがいいって、自慢していましたよ。暗いところに伏せて
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