がったんだろう。」
 島村陽一がそう云って、彼女の目を覗きこむと、彼女の眼は一寸まごついて、それから笑った。皮肉がかった笑いだ。がそれきりで、彼女の眼の奥の或る思想は、捉え難く静まり返ってしまう。どうしたんだときいても、どうもしないという。喧嘩をしたのでもない。何かが気に入らなかったのでもない。追い出されたのでもない。ただ、バーを――彼女はその小さなバーの二階に寝起していたのだ――飛びだしたが、訪ねていった家の当が少しちがって、今晩泊るところに困ってるのだった。
「あとで、また、ゆっくりお話するわ。」
 そして、別に他意ありそうもない笑いだ。
「まあそんなことは、どうでもいいさ。酒でも飲まない?」
 ホワイト・ホースをコップの水にわったのを、彼女は一杯だけうまそうに飲んだ。があとは、水だけだ。今晩は酒をのんではいけないのだという。煙草は? やめたといって手をださない。それが、意志の力で抑えているのではなくて、如何にも自然に振舞ってるのらしい。
「少し、てれちゃうね。」
 島村はウイスキーのコップを手にしながら、苦笑した。
「あなたは、飲んでもいいわ。」
 そんなことで、遅くなってしまった。もう女中たちも寝ていた。それはいつものことだ。夜遅くやって来る者があったり、夜更けまで話しこんでゆく者があったりするが、それに構わず、女中たちは十二時頃に寝ることになっている。そうでないと、子供のある家では、秩序が立たないのだ。
「兎に角、寝るところを拵えてあげよう。」
「いいわ、あたしここに寝るから。」
「ここに?」
「ええ。この椅子の上に寝るの。初めから、そのつもりで来たんですもの。」
 寝場所まで、自分できめている。だが、その固い長椅子の上では、いくら何でも、あまりひどい。室は他にもある。それでも、彼女は変に遠慮深い――というよりも、もう自分できめてかかってるのだ。云うなりに任せるの外はなかった。ただ、暖いから仕合せだった。島村は苦笑しながら、母屋の方へ行って、女中を一人起した。――アトリエの方に我儘な女の泊り客だ。薄い布団で沢山だ。そして、女物の寝間着があったら一枚……。
 島村が戻っていくと、キミ子は室の隅につっ立っていた。紫がかった着物、臙脂のかった帯、房々とたれてる短い髪、夜更けの電燈に輝らされてるその後姿が、世の中に一人ぼっちだという様子だ。而も元気に一人ぼっちなの
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