の一重下に蝋をでもぬりこんだようになっています。身体のしんまで疲れて、更に弾力がないでしょう。意図した通りじゃありませんか。そして異常な試みです。ここをつきぬけなければ、何もかも駄目ですよ。落着いてじっと時をお待ちなさい。始末におえなくなったら、また私がいい智恵をお貸ししますよ。何か胸の底からびくりびくりして、みっともないじゃありませんか。胸でもむかむかするんでしたら、ウイスキーか何か、一杯ぐっとやってごらんなさい。
おや、どうしたんです? 何をびっくりしてるんですか?……
――俺が饒舌ってるのをそっちのけにして、今村は顔をこわばらし眼を丸く見開いて、前方を見つめた。振り返ってみると、そこに、波江が立っていたのである。黒がちの縞お召の着物に、花をちらした白っぽい帯をしめ、小さな革のハンドバッグをかかえ、ベルベット紋模様のショールをひっかけ、いつもの通りほんの型ばかりの薄化粧の顔だが、それをへんに赧らめて、眼に興奮の色を帯びて、笑いかけたのを中途でやめ、つかつかと寄ってきた。
「ご免なさい、遅くなって……。お待ちになりましたの?」
じっと今村に眼をやったのは一瞬間で、すぐその側にくっつくように腰を下した。そして一昨日のお詫びやら、珈琲をあつらえるやら、どこに行きましょうかと尋ねるかと思えば、海の見える室をとっておいて貰ってるとか、へんにそわそわして、小料理屋の主婦らしい態度に生娘らしい調子を交えていた。今村はただ簡単な返事をするきりで、先刻の焦躁の気はなくなり、心身ともにしいんと沈みこんだ様子だった。
二
自動車は京浜国道を走っている。波江は袂の下で今村の片手を執りながら、顔をそむけて、外の風物にぼんやり眼をやった。人家の燈火、行きちがう車馬、あとはただ暗い夜空だけだった。今村はじっと眼をつぶっているし、波江の眼はいつまでも見開かれて、外に向けられていた。その眼に、ちらちらと燈火のかげがさして、淋しく美しく、涙ぐんでさえいるように見える。俺も柄《がら》になくしんみりした気持になって、波江の心にちょっとふれてみたく、その心窩《みぞおち》を擽ってやったのである。すると――
今晩は、外のことはみんな忘れて、あの時のことだけを、じっと考えていたいのです。そしてあの続きの夢としたいのです。丁度、お盆の十五日の晩、私達二人きりで、薄暗い海岸を歩いて、燈籠流しを見物しました。板の上に四方を紙で張った、小さな行燈《あんどん》みたいなものを拵え、中に蝋燭をともして、波打際から、沖へ押し流すのです。大家《たいけ》で新仏のあるところでは、舟を仕立てて幾十もの行燈みたいなものを、沖の方に浮べ流すのです。それが、湾内の静かな海の上にゆらゆらと浮いて、波頭にもその火がちらちら映って、とても綺麗です。
穏かな晩でした。月は、雲にかくれていたか、それとも出ていなかったか、海岸は薄暗く、そして一面にぼーっとして、かすかな微風がそよそよと吹いてるきりでしたが、夜の浜辺は涼しく爽かでした。磯づたいに、砂の上を、どこまでも歩きたいような晩でした。私達は沖の燈籠を見、波に映ってるその火を見、そして生や死のことなどを考えていました。仰いで星を見ることなんかしませんでした。私には悲しい結婚が、恐ろしい物影のように前に立塞っていました。その時、今村さんと何のことを話していたか覚えていませんが、今村さんは突然私の手を執って、あなたに足りないのは力だけだ、と云いました。私悲しくなって、今村さんの手をはなさず、縋りつくようにして歩いていきました。人がちらほらしますので、浜辺から少し離れて、松の木が七八本立ってるところまで行った時、松の根が出てる上に、今村さんは真白なハンケチを拡げました。そこに腰をおろす時、私は今村さんによりかかってしまい、今村さんは私を引寄せ、そして初めて、キスをしました。強く強く抱きしめられたということ以外は、頭がぼーっとして、何にも覚えていません。
ただそれだけのことが、どうして今迄忘れられなかったのでしょう? 今村さんも私も、愛してたかどうかさえ分りません。ただああいうことがあったというだけです。私が結婚生活に破れて東京に出て来て、叔母と一緒に小料理屋などを始めた時、今村さんの住所をきいて手紙を出したのも、同郷人の応援を頼むという意味だけでした。けれど、心の底では、単なる同郷人だけではありませんでした。その、何というか、あの時よりずっと前から、赤ん坊の時から、よく知り合ってるというような親しみの気持が、次第に大きくなってきました。今村さんに久しぶりで逢ってみると、私の方が余り変ったせいか、少しも変っていないような気がしましたばかりか、背丈が少し小さくなった――そんな筈はありませんが――でもそういう気がしました。それがなお、親しみの
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