は幸福な男ですね。朋子さんはほんとによく尽してくれますよ。」
 突然、内山は涙を流していた。一種の感傷だったろうが、それも、高血圧のためかも知れなかった。
 私は悪いところを見たような気がしたし、酒も無くなったので、そこで切り上げて帰っていった。
 後で聞いたところに依れば、その晩、内山はずいぶんたくさん飲んだらしい。そして、愉快そうに陽気になったり、感傷的に沈み込んだりした。しまいにはもうすっかり泥酔して、体がふらふらしていた。帰りぎわにちょっと出口近い腰掛に腰を下したが、位置がきまらず、土間に倒れて、膝頭で硝子戸の硝子を一枚壊した。怪我はどこにもなかった。援け起されて、壁際の腰掛に坐らせられたが、卓子によりかかりながら、硝子の無くなった小一間の穴を眺めて、嬉しげに言った。
「ははあ、ぽっかり穴が開いてるな。これはいい、ぽっかり穴が開いてる。」
 だがもうその方は見ずに、卓子に両腕で倚りかかり、腕のなかに顔を伏せてしまった。
 もうずいぶん遅く、他に客もなく、店をしまう時刻だった。だが朋子は、内山のことをおばさんに頼んで、少し距離のある硝子屋へ駆けて行った。硝子屋はすぐに来てくれて、新らしく硝子をはめた。それが済んでから朋子は、眠ってる内山を起して、彼の足許に気を配りながら帰っていった。
 それ以来、内山と朋子は峠の茶屋に来ることがたいへん少くなり、来ても少し飲むだけで帰っていった。それで私も、彼等二人に出逢うことが殆んどなくなった。心の中で、彼等の健在を祈る思いだった。



底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「改造」
   1952(昭和27)年5月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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